ジャニー喜多川 - ジャニーズ百科事典
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ジャニー喜多川

ジャニー喜多川(ジャニー・きたがわ、Johnny H. Kitagawa、アメリカ時代の本名:ジョン・ヒロム・キタガワ〔John Hiromu Kitagawa〕、日本での本名:喜多川 擴〔きたがわ ひろむ〕、1931年〔昭和6年〕10月23日 - )は、日本の実業家、芸能プロモーター。 ジャニーズ事務所、及び、関連会社のジャニーズ出版、ヤングコミュニケーション、ジェイ・ドリーム、つづきスタジオの代表取締役社長。(但しジェイ・ドリームに関しては、名義だけの幽霊社長)
ロサンゼルス生まれの日系二世(両親共に日本人)。 身長:153cm。
姉はジャニーズ事務所の取締役副社長・メリー喜多川


目次



来歴

  • ジャニー喜多川の父親は、僧侶の喜多川諦道 (きたがわ たいどう)。 1896年(明治29年)、大分県生まれ。 高野山大学卒業。

       右は諦道の妻・栄子

      

    諦道は8歳で稚児(少年修行僧)として出家し、やがて和歌山県高野山の導師となる。 放蕩三昧で、自ら「やくざ」とか「遊び人」と称する異色の坊主だった。
      (「諦道は高校時代に野球で甲子園に出場した」と書かれた文献が存在するが、これは誤報。 そもそも諦道の高校(当時は旧制中等教育学校)時代には、高校野球も甲子園もまだ存在すらしていない。 全国高等学校野球選手権大会の開始は1915年。 阪神甲子園球場の完成は1924年)

    師の僧正が大隈重信後藤新平らと親しくしていたことから、諦道も海外への思いを強めるようになり、 諦道を可愛がっていた和歌山市の有力者・大谷家(息子は大谷貴義。1905年5月31日 - 1991年5月17日。児玉誉士夫と並び「戦後最大のフィクサー」と呼ばれた人物)からの援助を受け、諦道は真言密教の布教のために1924年(大正13年)2月より世界一周の旅に出発した(当時27歳)。 大谷家との繋がりは、元々、諦道の父母が大谷家で世話になっていたことがきっかけであった。
    そして1924年2月、ロサンゼルスのリトル・トーキョーのサウス・セントラル・アベニューに在った「高野山真言宗 高野山米国別院」(愛媛県人1世らが大半の発起人となって1912年〔大正元年〕11月24日発足)の大使教会に到着。
       
    ここではほんの2〜3ヶ月だけ助法し、また世界一周旅行を続けるつもりだったが、当時の主監が急に帰国することになったため、急遽、諦道が第三代主監となる。  以後、1933年までの9年間、米国大使教会の運営を務めた。
    (ネット上では諦道が居た場所を、同じリトル・トーキョーの「真宗大谷派 東本願寺ロサンゼルス別院」とする記述が多数あるが、それらは全て誤り

    諦道は活発な布教活動に精を出し、ロスの日系人社会の顔役となる。 毎週金曜日には寺院で婦人会を集めた料理教室を開いたり、日曜日にはサンデースクールとボーイスカウトも始めた。(ボーイスカウトは第379隊で、1932年2月7日に発足)
    ハリウッドのランドマーク「グリフィス天文台」の麓に居を構え、大阪に居た妻・栄子も呼び寄せた。 そして生まれたのが、泰子(メリー喜多川)、真一(まさかず。愛称:マー坊)、そして擴(ジャニー喜多川。愛称:ヒー坊)の三姉弟だった。

  • 当時はまだ日米開戦前だったため、喜多川一家は日系移民の強制収容所に送られることもなく、1933年7月26日、サンフランシスコ港から貨客船「秩父丸」に乗って横浜港に到着し、大阪に移り住んだ。 (ネット上ではジャニーやメリーがアメリカで強制収容所に収容されていたとする記事が多数存在するが、これも全て誤り
    諦道は道頓堀にある高野山真言宗の寺「法案寺」の住職の世話で、後にプロ野球チーム「ゴールドスター」のオーナーとなる、橋本三郎の下で働くようになった。
    翌1934年、母・栄子が京都で逝去。 以来、メリーが2人の弟の母親代わりとなった。

  • やがて第二次世界大戦が始まり、1942年(ジャニーは当時10歳)、父・諦道だけが大阪に残り、三姉弟は、和歌山市の有力者・大谷家が和歌山県東牟婁郡勝浦町(後の那智勝浦町)に持っていた島「中ノ島」の南紀勝浦温泉に身を寄せて疎開。  ジャニーはこの「中ノ島」から尋常小学校へ、更に、坊主頭に詰襟の制服を着て旧制中学校へと通った。  中学2年の夏休み、ジャニーは一人で大阪に遊びに行った帰りに、1945年7月9日深夜から7月10日未明にかけて、和歌山市街にて「和歌山大空襲」に遭遇したが、無事に逃げおおせた。
      (一方、三姉弟と離れて大阪で暮らしていた父・諦道は、橋本三郎が1946年2月に大阪で創設したプロ野球チーム「ゴールドスター (翌1947年に「金星スターズ」に改称)」のマネージャーを、1948年2月まで2年間務めていた。
      その後、諦道は橋本三郎の親族が経営する心斎橋の煎餅屋「杵萬」に居候するようになり、やがて昭和40年代にそのまま「杵萬」で逝去。  葬儀は大阪の三津寺で盛大に行われ、僧侶も多数参列したが、ジャニーやメリーが姿を見せることは無かった)

  • 1947年3月にジャニーが旧制中学校を卒業すると、三姉弟は「市民権(米国籍)が無くなってしまうから」との理由で、横浜港からLST(米軍の軍用船)に乗って渡米し、再びロスに移り住む。 そしてジャニーはロスの高校に通いながら英語を学び、「アーニー・パイル・シアター (Ernie Pyle Theater)」にてミュージックメイカーのアシスタント(雑用係)のアルバイトを経験する。
    (注:1945年から1955年までの東京宝塚劇場がGHQに接収されていた際の「アーニー・パイル劇場」とは別。また、アーニー・パイルとは、第二次世界大戦末期の沖縄戦で命を落とした従軍記者の名前)
    高校卒業後は、姉のメリーと同じロサンゼルス市立短期大学 (Los Angeles City College) [1]へ進学。
    ちょうどその頃、終戦後で劇場などが少ない時期だったこともあり、「高野山米国別院」の新寺院(1940年8月完成。リトル・トーキョーのイースト1stストリート342番地)の説教用の集会場「高野山ホール」のステージを、日本からやって来るスターたちが次々に利用するようになった。
     
    (以下の3枚は1枚目が2006年時、2・3枚目は2012年時)
       
    まず最初は、1950年に田中絹代が日米親善芸術使節として訪れた。 そして、笠置シヅ子&服部良一(1950年6月1日〜3日)、大河内伝次郎、山本富士子(1951年、初代ミス日本としての公式訪米)、古賀政夫、ディック・ミネ、高峰美枝子、霧島昇、二葉百合子など、そうそうたる面々が寺院のステージに立った。 ジャニーはその度に、現地コーディネーターと通訳を買って出ていた。  1950年5月に美空ひばり(当時12歳)が、人気絶頂だったボードビリアン・川田義雄(後の川田晴久)と共に二世部隊記念碑建立基金募集公演のために渡米した際も、高野山ホールのステージがロス公演の会場となったため、ジャニーはステージマネージメント全体を担当。 川田晴久の知遇を得ると共に、美空ひばりとも交流を深める。 これらのことが、やがてジャニーが日本芸能界に進出を志すきっかけとなった。

  • ロス市立大学を卒業したジャニーは、メリーと共にハウスボーイ(家政婦業)をして生計を立てていた。 優秀だった兄のマー坊はUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)を卒業し、宇宙船関連の航空機メーカー「ノースアメリカン・ロックウェル・コーポレーション」のエンジニアとなっていた。 また、三姉弟は有名な日系写真家・宮武東洋(1895年 - 1979年、香川県出身)がロスのリトル・トーキョーで経営していた写真館を手伝ったりもしていた。 この他、メリーはハーバーシティの日本語学校で教えていたこともあった。

  • 1952年、アメリカ国籍だったジャニーとマー坊には兵役義務があり、当時勃発していた朝鮮戦争に徴兵される。  兄のマー坊は、パラシュート部隊で優秀と認められ、幹部付きの当番兵となった。  ジャニーは、韓国の戦災孤児に英語を教える任を命ぜられ、広島県江田島市の海軍兵学校跡地を使用した米軍の学校「江田島学校」(1955年一杯まで米軍及び英連邦軍などが使用)で朝鮮語を習得するため、1952年にアメリカ陸軍犯罪捜査司令部(CID)の情報員(通訳の助手)という肩書きで再来日する。 そして僅か10ヶ月で朝鮮語をマスターし、韓国の板門店に出向いて、1年2ヶ月間に渡って子供たちに英語を教えた。
      (朝鮮戦争後のマー坊は、ロサンゼルスのガーデナに住みながら、前出のノース社でNASA関連の仕事をし、アポロの設計にも携わったが、1985年、くも膜下出血で倒れる。 メリーが日本に連れ帰り、大阪の病院に入院させるも、50代半ばで逝去した。 尚、日本人女性の妻との間には娘をもうけている)

  • 除隊後はアメリカへ戻らず、日本に滞在。 上智大学国際部[2]に社会人入学し、1955年にはバンドを結成して自らも芸能界へ参入した。 大学卒業後にバンドは解散。

  • その後、英語力と滞米経験を買われ、ワシントンハイツ内(後の渋谷区神園町「オリンピック記念青少年総合センター」内)の独身米軍士官向けの4階建ての宿舎(1955年建設)に住みながら、アメリカ大使館勤隷下に組織された駐留米軍の一セクションである「在日アメリカ軍事援助顧問団 (Military Assistance Advisory Group-Japan。通称:マグジェイ(MAAG-J)。後の在日相互防衛援助事務所)」の事務職員として、旧防衛庁(霞が関)に在った顧問団の事務所に1958年より勤務。 (1960年1月11日より防衛庁が赤坂の檜町地区〔後の東京ミッドタウン〕へ移転)
    そして、大学時代にバンドのマネジメント等も担当していた経験から、1962年、ジャニーにとって最初に手がけるアイドルグループ「ジャニーズ」を作り出し、タレントのプロデュース業に軸足を移していった。 マネージメント活動が忙しくなると、軍事援助顧問団での仕事はずっと休職状態が続き、1966年、正式に退職した。

    ※ ジャニーズ事務所設立への流れは、こちらを参照。


人物・エピソード

  • 趣味は麻雀。

  • 酒は飲まない。

  • 好きな言葉は「勝てば官軍」。

  • 歴史が好きで、特に楠木正成と彰義隊に共感を覚える。

  • 人に対する好き嫌いが非常に激しい。 人を一瞬で好きになるが、一瞬で嫌いにもなる。
    ジャニー喜多川というたった一人の人間の、ほんの些細な意向、気まぐれによって、膨大な数の少年たちの人生がいとも簡単にバタバタと変えられてしまう。 本来ならスターになれる逸材であっても、ジャニーの個人的な感情一つでその道が断たれてしまう。逆に気に入られればスターにされ、億万長者になれてしまう。 ジャニーがもたらす影響力はあまりにも大きく、残酷である。

  • フォーリーブスの江木俊夫は自著の中で、「ジャニーズ事務所に最大の利益を与えたのはSMAPだろうが、ジャニー喜多川さんが今でも理想のアイドル像として思い描いているのは郷ひろみだろう」と述べている。
    しかし、タレントのマネジメントで神経を使い過ぎ、「十二指腸潰瘍の末期」と診断されて1974年6月から3ヶ月間、赤坂の山王病院で入院生活を送っている間に、当時事務所で一番の稼ぎ頭であり、最も可愛がっていたその郷ひろみが、バーニングプロダクションに引き抜かれてしまった(注:移籍が正式に完了したのは翌1975年4月1日)。 ジャニーズJr.のメンバーやスタッフまでも引き連れたこの大きな移籍騒動でジャニーは相当なショックを受け、その後は趣味だった麻雀に埋没することが多くなり、森進一和田アキ子を六本木の合宿所に招いては、明け方まで麻雀をしていた。  尚、和田アキ子はジャニーのことを「ジャニ子」、メリー喜多川のことを「メイ子」という愛称で呼んでいる。

  • THE GOOD-BYE」の衛藤浩一や、「ORIGINAL LOVE」の田島貴男に顔が似ていると言われることがある。

  • 所属タレントからの呼称は、「ジャニーさん」または「社長」。  そして所属タレントは皆、ジャニーに対して“タメ口”である(「敬語は堅苦しいから」とジャニーから敬語禁止令が出されるため)。

  • 姪(ジャニーの兄・真一の娘)が、福岡市内でピアノ講師をしている。

特徴

  • ジャニー喜多川は「白虎隊」、「二本松少年隊」、「新選組」などの歴史ものが好きで、日本の芸能史上、アイドルのグループ名に「○○隊」、「○○組」というネーミングを最初に採用した人物。(白虎隊、シブがき隊、少年隊、桜隊、男闘呼組など)
    以降、多くのアイドルグループがこのネーミングを使用するようになった。
    (例:「少女隊」、「おめで隊」、「うしろ髪ひかれ隊」、「渡り廊下走り隊」、「うしろゆびさされ組」、「あすか組」〔原作漫画は1985年8月連載開始〕、「桜っ子クラブさくら組」、「平成おんな組」、「維新組」、「モーニング娘。おとめ組」、「モーニング娘。さくら組」、「ほね組 from AKB48」、「でんぱ組.inc」、「モーニング娘。天気組」など)

  • 自分にとって思い入れの深い人物やグループの名前、また、自身がプロデュースしながらも売れなかったり消滅してしまったグループの名前を、後に再び引用して改めて焼き直すことが多い。

    • 初代ジャニーズの中谷良のリードボーカル曲『裸の少年』(1966年。作詞:中谷良、作曲:三保敬太郎。ジャニーズのアルバム『ジャニーズとアメリカ旅行』に収録。 但し実際に作詞したのは中谷ではなくジャニー喜多川)
                  ↓
      ジャニーズJr.のバラエティ番組のタイトル『裸の少年』(2001年4月7日 - 2009年9月26日、テレビ朝日)
      尚、楽曲『裸の少年』は、後にフォーリーブスの北公次もソロ曲としてカバー。(1969年。北のシングル『ひとりぼっちになった時』のB面、及び、 フォーリーブスの1stアルバム『ヒット!ヒット!ヒット! フォーリーブス・ゴールデン・ショー』、 ハイ・ソサエティーの1stアルバム『世界へジャンプ! ハイソサエティ・サプライズ・プレゼント』に収録)
      更に、2012年〜2013年にかけて公演された3ヶ月ロングランミュージカル『ジャニーズ・ワールド』(通称:ジャニワ)でも、Hey! Say! JUMPの山田涼介が同曲をカバーしている。

    • ミュージカル・アカデミー(1960年代〜1970年代に活動していた男性12名(結成時の人数)のコーラスグループ。 1965年のミュージカル『焔のカーブ』ではジャニーズとも共演した) → Musical Academy

        
        画像はコーラスグループの「ミュージカル・アカデミー」

    • ジャニー喜多川 → 公次 (自らの名前の「キタ」の部分を引用)

    • 北公 → 成田昭 (「」の文字を引用)

    • Four Tops(1960年代半ばに全米1位のヒット曲を出していたアメリカのR&Bコーラスグループ)  → フォーリーブス → Four Tops

    • フォーリーブス・ミュージカル『少年たち』シリーズ(1969年 - 1976年) → ミュージカル『少年たち 〜格子無き牢獄〜』(2010年 - 2011年)

    • 『夏の嵐 〜第1章 光 / 第2章 影〜』(1970年8月1日に発売されたフォーリーブスのアルバム)、及び、『少年たちパートU 〜 青春の光と影』(1976年3月に行われたフォーリーブスの10周年記念ミュージカル) → 『PRIVATE LIFE 〜Light & Shadow〜』(1987年4月28日に発売された少年隊のアルバム) → ライト・イン・シャドウGENJIの当初のグループ名) → B.I.Shadow

    • 名前のイニシャルがAからZまで全て揃った26人のメンバーを集め、ミュージカルを上演できるようなグループを作りたいという「ジューク・ボックス」の当初の構想(アルファベット「A to Z」へのこだわり) → A.B.C-Z → Sexy Zoneの当初の構想ユニット「A.B.C-xyZ

    • ジュニア・スペシャルジャニーズ・ジュニア・エース → Jr.BOYS BESTJr.BOYS Special

    • ジャニーズ・ジュニア・エース → JR.A (ジェイ・アール・エー)
        「エース」のアルファベット表記は、「Ace」ではなく「A」一文字だった。 また、1970年代前半のジャニーズJr.は「ジャニーズJR.」とも表記されていた。

    • ザ・ニュース → NEWSSAY・Sのバックバンド) → 2003年にデビューしたNEWS

    • リトル・ギャング → Little Gangs関西ジャニーズJr.内のダンスユニット)

    • クエッション → 村田勝美&ハイクエッチョンズ → クエスチョンズ (「嵐」の当初のグループ候補名) → Question?

    • 未都由 → 横山裕 (「YOU」のネーミング)

    • ジャPAニーズ → ジャPAニーズHI!

    • Hey! Say!』&『JUMP ’84』 → Hey! Say! JUMP
        Hey! Say!』は、1989年に発売された光GENJIのアルバム。(この「Hey! Say!」というネーミングは、ジャニーズ事務所が行なったイベントでも何度か使用されている)
        JUMP ’84』は、1984年の春休み期間中に行われたジャニーズ事務所企画のコンサートイベント。
        尚、Hey! Say! JUMPの“JUMP”は、「Johnny's Ultra Music Power」の略だが、
        JUMP ’84』の方は、「Johnny's Ultra Music Panic」の略で、田原俊彦近藤真彦シブがき隊THE GOOD-BYEの順で、会場を変えながらリレー形式で開催されたコンサートだった。

    • 東京 (男闘呼組の前身グループ) → TOKIO → TOKYOTOKYO浜松町

    • ジャニーズ・シニア → ジャニーズSr.

    • 光GENJI平家派ホタル の男女合同構想 → Sexy Family


  • どことなく顔立ちや路線の系統が似ている人物が、新旧のジャニーズ(一部ジャニーズ以外のアイドルにも)の中で繰り返されているようにも窺える。(本人たちが先輩に憧れて真似る場合も一部含む)

    • 長沢純 (ジャニーズではない) → 真家ひろみ
    • あおい輝彦 → 二重瞼に整形後の赤木さとし
    • 中谷良 → 猶場輝彦
    • デビュー直後の北公次 → 山本淳一
    • 北公次 → 薬丸裕英 → 山本淳一 → 千賀健永
    • 江木俊夫 → 国分太一
    • 青山孝 → SMAP結成直後の中居正広
    • 初期の永田英二 → 大倉忠義
    • 小谷純 → 中居正広
    • 畠山昌久 → 宇治正高、倉田順一 → 山口達也
    • 郷ひろみ → 志賀泰伸
    • 森谷泰章 → 森内貴寛 (後のTaka)
    • 城みちる (ジャニーズではない) → 相葉雅紀
    • 若き日の井上純一 → 二宮和也
    • 1977年時の豊川誕 → 内博貴
    • 未都由 → 初期の屋良朝幸
    • 曽我泰久 → 香取慎吾
    • 田原俊彦 → 錦織一清
    • 近藤真彦 → 植草克秀 → 中村繁之 → 諸星和己 → 中居正広
    • 野村義男 → 宮田俊哉
    • 竹本孝之 (ジャニーズではない) → 手越祐也
    • 本田恭章 (ジャニーズではない) → 岡本健一
    • 錦織一清 → 中島裕翔
    • 東山紀之 → 堂本光一
    • 植草克秀 → 高木延秀
    • 宇治正高 → 横尾渉
    • Jr.時代の内海光司と石丸志門
    • 内海光司 → 初期の古川栄司
    • 大沢樹生 → 松岡昌宏、玉森裕太
    • 三好圭一 → 志賀泰伸
    • 柳沢超 → 佐藤アツヒロ → 佐藤敬 → 高橋直気
    • 山本陽一 (ジャニーズではない) → 野中和久
    • 成田健一 → 朝倉健仁
    • 高橋一也 → 田中聖
    • 岡本健一 → 初期の木村拓哉
    • 初期の赤坂晃 → 初期の松本潤
    • 中居正広 → Jr.時代の堂本剛、渋谷すばる
    • 草g剛と岡田賢一郎
    • 伊東正美 → 浜田一男
    • 初期の長瀬智也 → 亀井拓 → 中山優馬
    • 堂本光一 → 山田涼介、橋本良亮
    • 佐野瑞樹 → 初期の岡田准一
    • 森田剛 → 屋良朝幸、Jr.時代の赤西仁
    • 三宅健 → 伊藤達哉
    • 佐々木大地 → 山下智久
    • 風間俊介 → 桐山照史

ジャニー弁

  • ジャニー喜多川は、所属タレントを呼ぶ時に名前では呼ばず、誰に対しても「YOU」と呼んでいる。(但し横山裕のことだけは「ヨコ」と呼んでいる)
    また、「今日、日曜日だしYOUプール来ちゃいなよ」などと、ジャニーズJr.の面々を唐突に電話で呼び出すこともある。
    更に、「YOU、○○しちゃいなよ」という一声でグループが結成されたりコンサートが決定したりと、軽いノリながら重要な決定を下すことも多い。
    この「YOU」、「○○しちゃいなよ」といったいわゆる“ジャニー弁”は、所属タレントのみならず多くの芸能人によってしばしばネタにされている。

住居侵入被害

  • 2011年8月17日午前9時45分頃、渋谷区渋谷の自宅マンションに男が侵入し、ジャニーを閉め出して篭城するという前代未聞の事件が起こる。 報道では、帰宅したジャニーが自分の部屋のある階のオートロックを解除した際、近くに潜んでいた男も一緒に中に入り、素早く無施錠だったジャニーの玄関扉を開けて中に入り、内側から鍵をかけたとされている。 そしてジャニーはフロントを通じて110番に連絡し、約40分後、駆け付けた警視庁渋谷署員が室内に突入。 男は取り押さえられ、住居侵入容疑で現行犯逮捕された。  ジャニーは34階建てのタワーマンションの最上階(リーマンショック前は時価14億の部屋)に住んでいたが、この事件による怪我や室内の物品の破損・盗難は無かった。
    侵入した男の名は、プリペイドカードや各種金券類を取り扱う、創業50年の老舗会社「株式会社サンデックス」の代表取締役社長・鵜瀞敏男(うのとろ としお、世田谷区尾山台、当時52歳)。 鵜瀞は、「知り合いのジャニー喜多川さんの家に入っただけ」と供述。 一方のジャニーは、「男との面識は無い」、「同じマンションの住人かと思った」と話した。  しかし、ジャニーの住む高級タワー億ションのセキュリティは非常にしっかりしており、24時間有人管理システムや、エレベーターを降りてもガラス扉でガードされているダブルオートロックシステムを導入。 つまり同じマンションの住人でさえ、別の階には行けない程の頑丈なセキュリティであった。 しかもジャニーの住む34階に住戸は2戸しかなく、もう一つの部屋もジャニーズ事務所の所有物件。 こうした状況の中で「見知らぬ男に自宅に侵入された」という説明には不自然な点が多く、実際にはジャニーは鵜瀞との面識があったのではないかと見られている。 芸能ライター曰く、ジャニーは近い関係者には「犯人と面識があった」と認めているとのこと。
    鵜瀞の会社の取引先企業リストにはジャニーズ事務所の名前もあるため、利権をめぐっての金銭トラブルの可能性が挙げられたが、鵜瀞が明治大学工学部を卒業後に母親から継いだ会社の月商は3億円以上、 内部留保も3億円を超えている。 更には世田谷区尾山台に164坪の広い土地を所有。評価額は2億8,000万円。 鵜瀞はこの土地を外車ディーラー12社に駐車場として貸している。 また、国立市にも300坪、2億3,000万円相当の山林・畑などを持っているほどのリッチな資産家であるため、ジャニーとの金銭トラブルというのは考えにくく、しかも事件のあった日は鵜瀞の52歳の誕生日だったため、何かしらのプライベートな付き合いでのもつれが原因だとも見られている。  ネット上でも、「古くに肉体関係のあったゲイ友達で、痴情によるもつれ」、 「ジャニーが数十年に渡って収集してきた所属タレントたちの児童ポルノコレクションを見るため」、 「少年たちへの性虐待の証拠を掴もうとした正義の侵入」などの説が浮上した。  尚、ジャニーはこの事件で世間に住所を知られてしまったため、翌9月の上旬に引っ越した。

交通事故

  • 2012年10月16日午後3時頃、ジャニーが仕事の打ち合わせに向かうために一人で車を運転していた際に、追突事故を起こす。  事故は港区北青山の見通しのいい直線道路で起き、40代の男性が運転する軽自動車に衝突。 ジャニーに怪我はなかったが、追突された男性は軽傷を負った。  ジャニーは普段、運転手付きの車やタクシーを利用しているが、時々自分でも運転していた。
    警察の調べに対してジャニーは、「前の車が信号で止まったのに気付かず、ぶつかってしまった」と説明。  警視庁赤坂署はジャニーを自動車運転過失傷害容疑で書類送検した。  この事故についてジャニーは事務所を通じ、「今後は車の運転は行いません」とコメントした。  以後、ジャニーの専属運転手は元・忍者遠藤直人が担当。

エレベーター事件

  • 2014年、ジャニーが自宅に新しく設置したエレベーターに乗った際、ドアが開かなくなり、閉じ込められてしまうという事態が発生。 携帯電話を持っていない状態で、非常ベルも未設置だったため、閉じ込められていた時間は実に4日間にも及んだ。
    老体にも関らず、4日間飲まず食わずの状態が続いて意識朦朧とする中、たまたま事前に洗濯機を注文し、家の鍵も預けておいた電気屋が、洗濯機を届けるためにジャニー宅の中に入って来てくれたため、ジャニーがエレベーター内から「助けてくれー!」と大声で叫び、何とか無事に救出されて一命を取り留めた。 一歩遅ければ、ジャニーズ事務所の歴史、そして日本の芸能史も変わってしまう一大事であった。  エレベーター会社からの正式な使用許可が下りる前に使い始めてしまったのが故障の原因だった。

セクハラについて

  • ジャニーが同性愛者(少年愛、ペドフィリア)であり、事務所に所属する男性タレントに対してセクハラ、及び同性愛行為の強要を行なっているとの話は、1960年代から散発的に繰り返し報道されてきた。

  • まず、1958年から1966年まで勤務していた駐留米軍の「軍事援助顧問団」の頃から、外交官ナンバーの車で新宿・花園神社の界隈に繰り出し、「ケニー」、「L」、「牛若丸」といったゲイバーで遊んでいたこと、 更に新宿駅南口で網を張り、田舎から出てきた少年たちに声をかけては、常宿の「相模屋」(1泊600円のベッドハウス)に連れ込んでいたことを、 当時のゲイ仲間・原吾一が、著書『二丁目のジャニーズ』シリーズで明かしている。

  • ジャニー喜多川が最初に手がけたタレントは「ジャニーズ」の4名(真家ひろみ、飯野おさみあおい輝彦、中谷良)で、 当初は池袋の芸能学校「新芸能学院」に所属させていたが、学院内にてジャニーが15人の男子生徒たちにセクハラ行為をしていたことが発覚。  オーナーの名和太郎(本名:高橋幸吉。2000年6月7日に急性心不全で逝去。81歳没)はジャニーを1964年6月28日付で解雇した。  しかしジャニーが、ジャニーズの4人も一緒に引き連れて出て行ってしまったためにトラブルとなり、裁判へと発展した。  裁判は長期化し、1964年から実に3年以上に渡って行われた。ジャニーズの4人も実際に証言台に立っており、 その証言記録は『女性自身』(1967年9月25日号)、『ジャニーズの逆襲』(データハウス刊)、『ジャニーズスキャンダル調書』(鹿砦社刊)にて再現されている。 『週刊サンケイ』(1965年3月29日号)でも、「ジャニーズ騒動」として5ページの記事が組まれた。  尚、『ジャニーズスキャンダル調書』では「同性愛」という表現自体を否定しており、ホモセクハラである以上、「性的虐待」、善意に表現しても「少年愛」であるとしている。

  • 元所属タレントの告発も相次いだ。元フォーリーブス北公次は『光GENJIへ』(データハウス、1988年12月)を、 元ジューク・ボックスの小谷純とやなせかおるは『さらば ! ! 光GENJIへ』(データハウス、1989年9月)を、 元ジャニーズの中谷良は『ジャニーズの逆襲』(データハウス、1989年10月)を、 元ジャニーズJr.平本淳也は『ジャニーズのすべて 〜 少年愛の館』(鹿砦社、1996年4月)、 山崎正人は『SMAPへ』(鹿砦社、2005年3月)をそれぞれ上梓し、セクハラの実態を暴露した。

  • 1988年〜1989年にかけ、月刊誌『噂の眞相』もこの問題を数回取り上げた。 しかしジャニーズ側は、「『噂の眞相』という雑誌はこの世に存在しないもの」という姿勢を貫いていたため、全く相手にされることは無かった。

  • 1999年〜2000年にかけては、『週刊文春』がジャニーズ事務所に対する糾弾を8回に渡ってキャンペーンとしてシリーズ掲載。 ジャニーが所属タレントに対してセクハラ・児童虐待を行い、事務所内では未成年所属タレントの喫煙や飲酒が日常的に黙認されていると報道した。 出版元である文藝春秋は、他の大手出版社と違ってジャニーズ事務所との癒着や影響力が皆無に等しかったために出来たことだった。
    大手メディアがこのセクハラ問題を取り上げたは1960年代以来初めてのことで、その波紋は大きく、 自民党衆議院議員・阪上善秀(後の宝塚市長)も、2000年4月13日にこの問題を衆議院で取り上げた[3]。  ジャニー側は名誉毀損であるとして文春側を訴え、1億2,000万円の損害賠償と謝罪広告を求める民事訴訟を起こした。


裁判

  • 2002年3月27日、東京地裁の一審判決では、「高度の信用性を認めがたい。 証人の証言はたやすく信用できない点を残している」としてジャニー側が勝訴し、 東京地裁は文春側に880万円の損害賠償を命じた(井上哲男裁判長)。 文春側はこれを不服として東京高裁に控訴した。

  • 2003年7月15日の二審判決では、ジャニー側のセクハラ行為を認定(矢崎秀一裁判長)。 このため、セクハラ部分の勝訴は取り消され、損害賠償額は120万円に減額された。 ジャニー側は損害賠償額を不服として最高裁に上告したが、2004年2月24日に棄却され(藤田宙靖裁判長)、120万円の損害賠償とセクハラ行為認定が確定した。

  • しかし各芸能マスコミは、一審の880万円から120万円に減額された事実だけをベタ記事で書いて済ませ、「ホモセクハラが認められた」という肝心の理由は書かなかった。
    この問題について、オカルト批判団体「Japan Skeptics(ジャパン・スケプティクス)」の機関誌『NEWSLETTER 53号』にて、当時同会の副会長だった草野直樹が言及・批判。 「マスコミの誤りというのは、『間違ったことを報じる』だけでなく、 『必要なことを報じない』ことも含まれる。 そして後者の多くは、いくつかの『タブー』に縛られていることが原因になっている。 報道におけるタブーのベールを抜いた報道には、オカルト・疑似科学の類と同様に騙されないようにしよう」と訴えた。
    芸能評論家の肥留間正明も、「芸能界でホモセクハラが裁判になったのは異例。 真実と認められたのも初めてで、これは社会的な事件」と語っている。
    また、ニューヨーク・タイムズや、イギリスの新聞・オブザーバーなどの海外メディアも大々的に取り上げ、この問題をタブー視するなどして真実を報道しない卑怯で腰抜けな日本のマスメディアの姿勢、体質を批判した。

  • 以後もジャニーズ事務所と文藝春秋は対立。 2006年に『武士の一分』が映画化された際、ジャニーズは文春文庫で発売されている藤沢周平の原作本の帯に、主演の木村拓哉の写真の使用を一切許可しない、という対抗措置を取っている。 また、木村が工藤静香と結婚した際にも、会見への週刊文春の参加を禁止した。 そのため、文春側は巻頭グラビアで白紙ページに木村とインタビュアーの輪郭のみを描き、ジャニーズによるメディア統制であると非難した。

  • ジャニーの性癖について姉のメリーは、「弟は病気なんだからしょうがないでしょ!」と言って放任している。


出演

テレビ

  • 日曜ビッグスペシャル 「完全独占中継 さようなら フォーリーブス」 (1978年8月27日 日曜20:00〜21:48、テレビ東京)
      番組の冒頭、楽屋でフォーリーブスに演出指導するジャニー喜多川の姿が映った。
  • JOHNNYS’World : Top of the J Pops (2013年1月27日、NHKワールドTV)
      ジャニー喜多川を特集した50分の特番で全編英語放送。 ジャニーは住吉美紀アナウンサーとの対談にて出演したが、ジャニーの顔は画面には映されず、声も吹き替えにされた。  唯一、ジャニーの帽子とサングラス姿の写真だけは少し映された。

映画

  • TOSHI in TAKARAZUKA Love Forever (1983年8月4日、東宝)
      田原俊彦のコンサートリハーサルのシーンで、姉のメリー喜多川と共に映り込んでいる。

ラジオ

  • 蜷川幸雄のクロスオーバートーク (2015年1月1日、NHKラジオ第1放送)
      ジャニーはこの日、自身の思い入れのある曲として、 The Association『Never My Love』、 The Monkees『Monkeesのテーマ』、 Perry Como『Papa Loves Mambo』、 笠置シヅ子『東京ブギウギ』、 映画「ウエスト・サイド物語」より『COOL』、 あおい輝彦『時計をとめて』、 Doris Day『Sentimental Journey』の7曲を紹介した。


受賞歴

  • 1970年3月 - GSアイドル雑誌『ティーンルック』の最終号(1970年3月10日号、主婦と生活社)での誌面企画「喜んでいただきま賞」にて、「取材協力賞」を受賞。 ジャニー喜多川の写真も掲載された。

  • 2003年 - 菊田一夫演劇賞「特別賞」受賞
       (但し授賞式には堂本光一を代理人として行かせた)

  • 2011年9月 - ギネス・ワールド・レコーズに認定
      「最も多くのコンサートをプロデュースした人物(2000年 〜 2010年に8,419回)」と、「最も多くのナンバーワン・シングルをプロデュースした人物(1974年〜2010年に232曲)」として認定され、 帽子とサングラスで変装した顔写真が、2012年版のギネスブックに掲載された。
      2011年9月23日放送の日本テレビ『ZIP!』では、「80年の人生をショー・ビジネスの仕事に打ち込んできて、ギネス・ワールド・レコーズによって認められたことに感動しています。 この年月の間に芸能界の創造性は格段の進歩を遂げました。 ギネス・ワールド・レコーズ・ブックがある限り、新しい記録に挑戦し続けようと思います」というジャニーのコメントが、キャスターによって読み上げられた。
      尚、「プロデュースした」と言うと、ジャニー自身が舞台演出や作詞、作曲、編曲などを行なったように思われがちだが、 あくまで「興行や製作の出資者・責任者」という意味であり、「数多くのコンサートを行なったタレントたち、及び、ナンバーワンを獲ったタレントたちを発掘し、デビューさせた人。 また、それらのタレントの所属事務所の社長であり、興行や製作の出資者、責任者」という表現が正しい。

  • 2012年 - 再びギネス・ワールド・レコーズに認定
      「最も多くのチャート1位アーティストを生み出したプロデューサー」として認定され、2013年版のギネスブックに掲載された。


参考書籍

  • 高野山米国別院五十年史 1912−1962
      (風早勝一 著、川島宏之 編、1974年、高野山米国別院刊)
       「喜多川諦道師の時代」の章 (全10ページ)
  • ジャニーズ・ファミリー 〜裸になった少年たち〜
       (和泉ヒロシ 著 〔後の小菅宏〕、1976年6月、オリオン出版)
  • フォーリーブスの伝説 (フォーリーブス 著、1976年8月、泰流社)
       ジャニー喜多川による文章が掲載。
  • 週刊明星 (1978年6月18日号、集英社)
      インタビュー記事 「フォーリーブス 秘められた“喝采”と“失意”の青春12年間 ! ! アイドル・メーカー、ジャニー喜多川氏が明かす偶像の裏表」
  • キミがスポットライトを浴びるためのアイドル読本
       (長倉孝 著、1986年4月、日本ビジネスライフ社)
  • 平凡 (1987年11月号、マガジンハウス) ロングインタビュー
  • ジャニーさん (4コママンガ作品、鶴田康文 著、1990年3月、データハウス)
  • SPA! (1990年7月4日号、扶桑社) 独占インタビュー
  • Views (1995年8月号、講談社)
      「ジャニーズ事務所のアイドル資本主義」(文:宇井洋)
  • BRUTUS (1996年2月号、マガジンハウス)
  • ジャニーズ輪廻論 (矢ア葉子 著、1996年6月、太田出版)
  • 月刊現代 (1997年1月号、講談社)
      「産業としての『ジャニーズ』を科学する」(文:弓狩匡純)
  • 芸能界スキャンダル読本 (1997年2月、宝島社・別冊宝島299)
       浅野恭平 寄稿 「ジャニーズ事務所の憂鬱」
  • AERA (1997年3月24日号、朝日新聞社出版本部)
       この時のインタビュー現場には中居正広が特別に同行させて貰っていた。
  • ジャニー喜多川さんを知ってますか 〜 初めて語る伝説の実像
      江木俊夫・小菅宏〔こすが ひろし。旧名:和泉ヒロシ〕著、1997年7月、KKベストセラーズ)
  • ボクの夢はキミたちが描く夢 〜 ジャニー喜多川が語るジャニーズ塾の子供たち
       (あおきひろし 著、1999年8月、メタモル出版)
  • ジャニーズお笑い進化論 (西条昇 著、1999年12月、大和書房)
  • レプリーク (2002年1月号、HANKYU BOOKS) ロングインタビュー
  • シアターガイド (2002年7月号、モーニングデスク) ロングインタビュー
  • 不滅のアイドル王国 (天馬飛呂志 著、2002年12月、ブックマン社)
  • 芸能界スキャンダル大戦争 (2004年5月、鹿砦社)
       「美少年アイドル帝国・ジャニーズ 虚飾の裏側」
  • シアターガイド (2006年5月号、モーニングデスク)
       西条昇による特別寄稿 「ジャニー喜多川の仕事」
  • 残響 〜 闘魂!俺が生きた芸能界の半世紀! (上条英男 著、2007年2月、シモンズ)
  • 芸能をビッグビジネスに変えた男「ジャニー喜多川」の戦略と戦術
       (小菅宏 著、2007年3月、講談社)
  • ワシントンハイツ 〜GHQが東京に刻んだ戦後〜 第14章 「アイドル誕生」 (秋尾沙戸子 著、2009年7月、新潮社)
  • 週刊文春 (2010年12月30日&2011年1月6日合併号、2011年1月13日号、文藝春秋)
       連載「ジャニー喜多川社長のルーツを追う!」
  • 文藝春秋 (2012年7月号、文藝春秋)
       「『ジャニーズ帝国』 原っぱからの五十年史」(文:二田一比古)
  • アイドル帝国ジャニーズ 50年の光芒 〜 夢を食う人・ジャニー喜多川の流儀
       (小菅宏 著、2012年6月、宝島社) - 新書
  • ジャニ研! 〜 ジャニーズ文化論
       (大谷能生、速水健朗、矢野利裕 著、2012年12月、原書房)
  • ジャニーさんに愛される息子に育てる法 〜 アイドルの掟 @
       (ジャニーズウォッチャー45年・小菅宏 著、2013年11月、竹書房)
  • ジャニーズ魔法の泉 〜 アイドルの掟 A
       (ジャニーズウォッチャー45年・小菅宏 著、2013年12月、竹書房)
  • FLASH (2014年2月4日号、光文社)
       「日本のテレビを牛耳る怪物 ジャニーズ帝国 一人勝ちの研究」
  • 芸能人はなぜ干されるのか? 〜芸能界独占禁止法違反〜 (星野陽平 著、2014年5月、鹿砦社)
       第5章 「ジャニー喜多川の少年所有欲求」
  • ジャニーズと日本 (矢野利裕 著、2016年12月、講談社現代新書)


脚注

  1. ^ ディプロマミルとされる方の「ロサンゼルス市立大学(City University Los Angeles)」とは異なる。
  2. ^ 第2次世界大戦後、上智大学はGHQ/SCAPにより「GHQの兵士とその子弟の高等教育機関」として指定され、国際部夜間部(後に比較文化学部を経て国際教養学部に)が設置された。
    1952年にGHQによる日本占領が終わった後も、米軍やアメリカ大使館の関係者及びその子弟の入学が多かった。 尚、同大学は1957年まで男子のみ入学が許可され、女子は入学できなかった。
  3. ^ 第147回国会青少年問題に関する特別委員会第5号
     「ジャニー喜多川のセクハラ・児童虐待疑惑についての阪上善秀の国会質疑」


外部リンク







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