豊川誕 - ジャニーズ百科事典
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豊川誕

        


豊川 誕(とよかわ じょう、作曲時のペンネーム:神愛情〔じんあい じょう〕、本名&旧芸名:本田孝〔ほんだ たかし。現在の本名は別の苗字に改姓〕、1958年10月5日 - )は、兵庫県姫路市出身の男性歌手。
身長:171cm、体重:70kg、靴:26.5cm、血液型:O型。 クリスチャン(プロテスタント)。 一児の父。

1970年代の 「冬の時代 (たのきん前夜)」 のジャニーズ事務所が生み出した、唯一無二のカルトアイドル。 「孤児」、「児童養護施設出身」という経歴を売りにされ、非常に話題を呼んだ。


目次



改名歴

  1. 本田孝
  2. 豊川誕
  3. 豊川ジョー
  4. 豊川誕
  5. 本田孝
  6. 豊川誕
  7. 本田誕 (1990年2月から)
  8. 豊川誕、および作曲時のペンネーム:神愛情


所属事務所

  1. ジャニーズ事務所 (1974年11月2日 - 1977年夏)
  2. ?? (1977年 - 1978年。豊川ジョー時代に所属)
  3. イヴェンターオフィス
      (1978年。豊川ジョー時代に所属。この事務所には1982年からあおい輝彦も所属した)
  4. エクサエンタープライズ
      (1978年 - 1979年。豊川ジョー時代に所属。矢沢永吉のスタッフが経営していた赤坂にあったプロダクション)
  5. 再びジャニーズ事務所 (1979年4月 - 5月)
  6. トエミ・ミュージック・オフィス
      (1980年。東芝EMIのプロダクション。この時に「オール・ジャパン・デビル・バンド」を結成)
  7. ロープロモーション
      (1981年1月 - 。シングル『愛したら最後』リリース時から所属。 途中からロープロダクションに改称)
  8. フレンズ・JT・プランニング (1992年からロープロダクションと掛け持ちで所属)
  9. (フリー期間)
  10. J&Kプロモーション (2008年5月から)
  11. イーミュージック (2009年7月から12月)
  12. (フリー期間)
  13. Projecti (プロジェクトアイ。2011年12月から2015年まで営業預かりで所属)
  14. アルファ・ジャパンプロモーション
      (2012年8月5日からProjectiと掛け持ちで半年ほど所属)
  15. (フリー期間)


参加バンド

1980年代から様々な形でバンド活動を展開。 中にはバンド名も特に無く、メンバーも固定していないグループもあった。 その場合の活動内容は、様々な企業のパーティーなどで余興演奏をし、その会社の社員たちを楽しませる「パーティーバンド」、「ダンスタイムバンド」として、東海汽船などの船内や、生命保険会社のパーティーなどに出演し、ディスコミュージックやオールディーズを演奏するというものだった。

  1. オール・ジャパン・デビル・バンド (1980年)
  2. ジョー & メシア (1981年)
  3. 本田孝 with his band (1985年)
  4. MESSIAH (メサイア。1988年 - 1990年)
  5. 豊川誕とケンちゃんバンド (1992年 - 1993年)
  6. 豊川誕 & シャロン (1996年。六本木のライブハウス「SPATS」に出演)
      シャロンのメンバーは、中武誠二(なかたけ せいじ。バンドリーダー。ドラム。 愛称:せいちゃん。3月22日生まれ。熊本県出身。4歳よりドラムを開始。「桜井りこ&57’s」のメンバー)、 中野新哉(ギター、再結成後のフォーリーブスのバックバンド「To-Da Five」に参加したり、2006年以降の近藤真彦のバックなども担当)、 田中哲也(ベース、愛称:テッちゃん。2006年1月に逝去)、この他にキーボードが1名。
  7. JMS-B
      ジャムス・ビー。「ジャパン・ミュージック・スペシャル・バンド」、「誕&美穂&シャロンのバンド」の意味。2009年8月結成の営業(イベント)用バンド。 豊川と五十嵐美穂のツインボーカルバンド。ドラム:中武誠二、ギター:佐藤誠。 結成だけはしたものの、結局何の活動もしないままで同年中に消滅。


来歴

  • 1961年10月某日、2歳時に、兵庫県姫路市の大手前通りの歩道(姫路城を背にして姫路駅を見た際に右側の歩道)の木製のベンチで、父親から「ここで待ってなさい」と言われたまま置き去りにされる。 言われた通りずっと独りで待ち続けていたが、夜になってその異変に気付いた真向かいのスナックのママ・仲井幸子 (さちこ) さんによって警察に通報され、保護される(スナックがあった場所はその後居酒屋に)。 置き去りにされたベンチの下には、子供服、「児童相談所に連絡して下さいと」と書かれた父親の手紙、風呂敷に包まれた大仏の置物があった。 そして、豊川の足の全ての爪に赤いペディキュアが塗られていた。
    発見当初は名前を「ヒロ」、年齢は「2歳」だと自分で話していたが、同年10月27日、当時の姫路市長・石見元秀(いわみ もとひで)によって「本田孝」と名付けられ、発見された日から約3年前の「1958年10月5日」を推定の生年月日として定められた。 更に市長はこの時、当時の姫路市役所の住所であった「兵庫県姫路市本町68番地」を、豊川の本籍地として定めている。
    後に、雑誌『週刊明星』の取材で市長に会いに行くも、既に故人となっていたため、なぜ「1958年10月5日」という日を誕生日に決めたのか、なぜ「2歳」と言っているのに3歳扱いにしたのか、 なぜ「ヒロ」と名乗っているのに「孝」という名前に決めたのか、それらの理由を確かめることが出来ず、市長の妻にだけ会い、焼香を上げさせてもらうに留まった。 なおこの際、驚くことに豊川の戸籍の性別欄に「男・女」のどちらにもまだ印が付いていないままだったことが発覚している。
    ちなみに姫路時代の豊川に対するあだ名は、“孝”からとった「ター坊」。 他に「ボッチ」という愛称もあった。

  • 保護されてからは、兵庫県姫路市城北新町の児童養護施設『社会福祉法人 パルコミュニティハウス 信和学園』で過ごし、最寄りの姫路市立城北小学校を卒業した。 当時は既に、身寄りのない天涯孤独の子供が入所する施設というよりは、親が何らかの事情で扶養能力がないために入所する子供が多かった。 そういう子供達は戸籍も分かっていて、親の面会もあるが、豊川の場合はそのどちらも無く、非常に寂しい思いをしながら育った。  当時のお小遣いは月に100円で、日曜日にアイスクリームやキャラメルを買っていた。 この施設では、天理教の教えも学んだ。初恋の相手も、施設の女の子だった。
    信和学園へは、アイドル時代に雑誌取材やLPレコードジャケットの撮影などで何度か帰ったほか(『月刊明星』1975年7月号など)、2007年8月31日にも、約30年ぶりとなる帰郷を果たしている。

  • 小学校3年生からは、年に2回だけ(各一週間)、里親制度で兵庫県相生市の石野家にて“短期里子”として過ごした。  そして1971年4月の中学入学と同時に石野家に移り住み、相生市立双葉中学校、および英語塾へと通った。  様々な部活動に励む一方で、当時の初恋の女性が郷ひろみの大ファンだったため、その影響で郷ひろみや沢田研二、野口五郎などのレコードを買い、一生懸命に歌も練習した。
    そして、中学卒業と同時に石野家を出て、一人で生きていく道を選んだ。

      なお、1977年2月8日に相生の里親宅へ出向き、里親、中学時代の担任(男性の日和先生)、および同級生10人との、3年ぶりとなる再会を果たした。 その時の模様は雑誌『週刊セブンティーン』(1977年3月1日号、集英社)に掲載されている。
      また、母親が「ものみの塔」の宣教師で、その影響を受けた豊川も21歳の時に洗礼を受けてクリスチャンとなっている(豊川に洗礼を授けたのは山本五十六の孫)。  父親の方は2006年末に逝去。 2008年6月にも、母親とは約31年ぶりとなる再々会を果たした。
      豊川を遺棄した実の両親については、「私が親です」と名乗る偽者が次々と現れた(参考文献『週刊明星』1975年7月「天涯の孤児・豊川誕に父母がゾロゾロ登場!」など)。 そして、高島忠夫司会のテレビ番組で本当の親を捜索する企画も行われたが、それでも結局見つかることは無かった。 豊川はデビュー当時の雑誌記事でこう答えている。 「もう実の親には会いたいとは思いません。でも、自分が本当は何という名前で何歳なのか、それさえ分かれば、僕は普通の人間に戻れると思う。それだけが気がかりです」と。
      ところがその後、ついに実の母親だと思える女性から集英社にコンタクトが入る。 そして当時の集英社の部長・K氏が実際にその女性と対面。 豊川への手紙を預かり、その文面は月刊明星にも掲載された。 実の母親は神戸市の出身で、東京で豊川を父の無い子として出産。 名前は「ひろし」と名付け、その後神戸へ戻った経緯などが明らかになった。 しかし、豊川と実の母親は双方の意思で、実際に対面することは無かった。 K部長曰く、母親の顔は豊川によく似ていたとのこと。
      なお、『週刊明星』(集英社)の1977年5月29日号では、公園で豊川を拾ってくれたスナックのママ・仲井幸子(さちこ)さんとの16年ぶりとなる対面も果たしている。

  • 1974年4月より、国から学資金を貰いながら、昼は神戸市須磨区の「関西鉄道学園・鷹取分所」(全寮制。校舎は寮の一階部分)、夜は神戸市長田区の定時制高校「神戸市立大和田工業高校(後の「神戸市立長田工業高校」)機械科」(2校とも現在は閉校)に通い出す。 関西鉄道学園の生徒は自動的に定時制の大和田工業高校にも通わなければならないルールだった。
    しかし同年の夏、寮の同部屋の仲間たちが、ボス気取りの他の部屋の寮生を嫌っており、血気盛んだった豊川は「分かった、じゃあ俺がやってやる」と言って、深夜0時にその部屋に奇襲をかけ、相手を血まみれになるまで殴ってしまう。 そのため、関西鉄道学園を強制的に自主退学に追い込まれて寮を出る羽目になる。 同時に、夜間高校もそのまま自然中退してしまった。

    その後は、須磨海岸の砂浜で海を見ながら2〜3日を過ごし、電車に乗って大阪に移動。 そして大阪駅の構内で寝ていた時、ゲイタウンとして有名な大阪市北区堂山町のゲイバーのオーナーから、「うちで働かないか?」と声をかけられる。 連れて行かれたカウンターだけの小さなスナックがゲイバーであることを理解しないまま、豊川は住み込みで17時から23時までの勤務を開始。その矢先に、客としてやってきた「ジャニーズ事務所のマネージャー」を名乗る男にスカウトされる。 (だがこの男性は実際はマネージャーでも何でもなく、タレントの斡旋を行ってジャニーズ事務所のマネージャーになろうとしていた堀越高校の学生だった。 しかも、豊川のデビュー後に斡旋料として300万円を要求している)
    豊川はスカウト話を一旦断ったが、その後も、男と手紙で連絡は取り合っていた。

    ゲイバーで働き始めて2週間ほど経った頃、客としてやってきた山口組の極道に、「お前ゲイじゃないだろ。鼻から上の顔つきを見れば分かる。こんな店早く辞めろ」と言われ、そのままその極道の家にしばらく泊まらせて貰い、10万円の小遣いまで渡されるなどの恩を受けた。
    その金を元手に、豊川は1974年8月より、大阪府守口市内のアパート(2階の突き当たりの4畳半、風呂なしトイレ共同、家賃6千円)を借りて一人暮らしを開始。 そして翌9月4日より、求人誌『アルバイトニュース』で知った堂山町の阪急東通商店街内にあった大きな純喫茶『NU (ヌウ)』(当時の所在地:大阪市北区堂山町4-17 固城ビル1F)のウェイターの仕事を、年齢を1歳年上に偽って開始。17時から23時まで(日曜のみ早番で朝10時から)の勤務で、時給は330円。 小柄だった豊川は、仲間から「チビッタ」という愛称で親しまれた。  アパートの部屋には家具が一つも無く、銭湯へは4日に一度しか行けない生活だった。  食事はいつも、職場と同じ商店街の『都そば』の天ぷらうどん。 職場の1歳上の友人・田辺氏とよく一緒に帰り、京橋の田辺氏の家の近所にあったお好み焼き屋「千両」(当時の所在地:大阪市都島区東野田町5-7-1。池乃めだかも子供の頃に行きつけだった店)で、2人で晩御飯を食べたこともあった。

    そんなある日、『NU (ヌウ)』でのアルバイト中に、例の“自称マネージャー男”が再びやってきて、「今回はどうしても東京へ連れて行く」と必死に説得してきた。 これに根負けした豊川は、一度上京してみることを決意。 喫茶店での勤務は同年10月31日が最後となった。
    そして、弦が一本切れたエレキギター、ヘッドホン、1万2千円の預金が入った通帳、中学時代からつけている日記帳、これらを入れたズタ袋一つを抱えて、二人で一緒に深夜バスで上京。 11月2日に東京に着くとそこからまたバスに乗って六本木のジャニーズ事務所へ。 そしてジャニーズ事務所の副社長・メリー喜多川に引き合わせてもらった結果、事務所に入ることが決まる。
    すぐにそのまま六本木の合宿所に入って数日間暮らす。11月4日には豊川にとって最初のファンも出来た。  その後、身の回りの荷物を取りに一旦大阪に戻る。 そして11月の約2週間を、『NU (ヌウ)』のウェイターの先輩・井口氏(当時大学生)のアパート(阪急神戸本線・神崎川駅そばの「美和荘」。豊中市二葉町2-6-27-9)に居候して過ごした後、11月中に改めて正式に上京した。(なお、井口氏は後にコックの修行でグアムへ移住。 また、矢沢永吉のバンド「キャロル」のファンだった井口氏に影響され、豊川もこの時からキャロルが好きになった)
    合宿所では、少し前まで郷ひろみが使っていた部屋を、豊川と「スーパーエイジス」の村田勝美の2人で新しく使うこととなった。
    そして再上京から10日後には、早くもフォーリーブスの大阪フェスティバルホールでのコンサートへのゲスト出演が決まり、ステージで歌を披露。 時を同じくしてテレビ東京『歌え!ヤンヤン ! !』へのレギュラー出演も始まった。

  • やがて、メリー喜多川から“豊川誕 (とよかわ じょう)”の芸名を与えられる。 「豊川」の由来は、メリー喜多川がいつも参拝している東京都港区元赤坂の「豊川稲荷東京別院」から。 「誕 (じょう)」の由来は、あおい輝彦が主人公の声優を務めたテレビアニメ『あしたのジョー』(主人公の矢吹丈も豊川と同じく施設育ち)と、2年前にジャニーズ事務所から「亜井じょう」の芸名でソロで売り出す予定だった人物がすぐに退所してしまったため、改めてその芸名を使いたかったから。
    しかし、「誕」という字は通常「たん」としか読まない。 これは、メリー喜多川が日系人で漢字の読み書きが苦手だったため、「じょう」の字を“誕生”の「誕」としてしまったと言われることがあるが、実際は、「どうしてそう読むの?」と不思議に思わせて気を引くための意図的な戦略であった。
    この芸名で、『月刊明星』の1975年2月号に初登場。 “1974年11月号で募集された企画 「君もジャニーズJr.のメンバーになってハワイへ行こう!」 に豊川が応募し、「ジャニーズJr. 第3期生」として合格した”、という嘘の設定を発表し、一週間のハワイ旅行に参加している姿が紹介された。 続いて、『月刊平凡』には1975年3月号で初登場した。
    そして、上京してから僅か2ヶ月後にレコードデビューの話が決まり、上京から5ヶ月後の1975年3月21日、1stシングル『汚れなき悪戯』をリリース。 キャッチフレーズは「うわさのジョー ! !」だった。

  • 何のボイストレーニングもしないでいきなりデビューしたにもかかわらず、歌唱力が非常に優れ、アイドル誌の表紙を山口百恵、桜田淳子、岩崎宏美、片平なぎさ、アグネス・チャンらと飾ったり、 キャンディーズ、岡田奈々、岩崎宏美、林寛子とは誌面でも共演企画が組まれ、『月刊明星』の1975年10月号の人気投票では1位に選ばれ、同雑誌の1975年度・最優秀新人賞を受賞するほどの人気があった。 また、1975年10月16日の「第8回新宿音楽祭」や、その他の音楽祭では殆ど銅賞を受賞。しかし秋田県などの地方の音楽祭では金賞も受賞した。 CBSソニーの中でも、『汚れなき悪戯』で「1975年・最優秀新人賞」を、続く『星めぐり』で「1975年・ゴールデンシングル大賞」を受賞。 更にマルベル堂の「年代別ブロマイド売上ベスト10」にも、1975年度と1976年度の2年間ランクインし、1976年度には第1位に輝いている。
    1975年6月には豊川のサークル(後援会、ファンクラブ)も作られ、会員数は3万人に達した他、豊川のために5人編成のステージ用バックバンド「ジョーズ」や、ステージ用ガールズコーラスグループ「ジョー・ガールズ」も作られた。  また、最盛期には「ボッチ・オンリーズ」、「ガッツ」、「フレンズ」、「J☆O☆E」、「アイシーズ」、「ジョーアンドジョー」、「エンジェル」、「レインボー」、「スウィーリーJOE」など、13グループもの応援グループ(親衛隊)が存在し、ステージ用の応援コールも作られた。 「L・O・V・E とよかわじょ〜」、「GO・GO・GO・GO レッツゴーじょ〜」など。  この当時の豊川は体重が48kgしかなく、それまでは先輩の北公次しか出来なかった連続バック転やバック宙を、豊川もステージで軽々とこなした。
    船橋ヘルスセンターにて開催された豊川誕とJOHNNYS' ジュニア・スペシャルの合同コンサートでは、豊川のファンの少女が興奮のあまりに失神死するという事故も発生した。

  • 1976年4月下旬、六本木の合宿所を出て、自分で不動産屋を回って見つけた新宿中央公園のすぐそばの2DKのマンションに真っ赤な絨毯を敷いて一人暮らしを開始。(『週刊セブンティーン』1976年7月6日号、『近代映画』1976年9月号、『週刊平凡』1976年11月11日号にて披露)
    この部屋ではハムスターを飼っていて、名前は「チャミー」だった。

  • 1977年6月21日に出したシングル『白い面影』をリリース。 しかし、同年夏に行われたコンサート「ジャニーズ・ジュニア サマー・フェスティバル」を最後に、ジャニーズ事務所を飛び出してしまった。 きっかけの一つは、『白い面影』の歌詞の内容に我慢が出来なくなったことであった。 その歌詞は、テレビ東京『歌え!ヤンヤン ! !』のプロデューサー・工藤忠義(ジャニー喜多川の親友)がペンネーム「阿里あさみ」名義で作詞したもので、「親のない子は焼かないパンを喉に詰まらせ水を飲む」などの悲惨なものであった。 豊川はレコーディングすることをためらっていたが、交換条件として、「この曲が売れたら月給を200万円にしてやる」と工藤を通じて言われ、渋々了承した。
    デビュー時からずっと続いていた「捨て子」、「施設出身」という事を前面に推し出して世間の同情を誘おうとする事務所側の戦略に、豊川はほとほと嫌気が差しており、売り出し方で揉めてマネージャーに「殺してやる!」と掴みかかったこともあった。  そして決定的となったのは、姫路の施設で一緒に育った親友のゴンちゃんに、「ター坊(豊川のあだ名)、何でいつまでも孤児だ不幸だって宣伝するの?」と言われた一言であった。
    豊川は200万円になるかもしれない月給を諦め、豊川のマネージャーと、後援会責任者の女性との3人で「オー・エンタープライズ」に移籍する手はずだったが、豊川とジャニーズ事務所との契約期間が5年の内、まだ2年も残っていたことが問題となり、仕方なく3人で新事務所を立ち上げることになった。  しかし、豊川とマネージャーはジャニーズ事務所から引き止められたものの、後援会責任者の女性は先にジャニーズを辞めて豊川のことを待っていたため、彼女を裏切る訳にもいかず、マネージャーを残して豊川だけはジャニーズを退社する道を選んだ。
    ジャニーズ事務所側としては何とか豊川を探し出して呼び戻そうとした。 そして芸能レポーターの鬼沢慶一に依頼し、かつて豊川が出演していたTBSのバラエティ番組『ぎんざNOW!』の番組内で、「豊川誕! 暴走族と遊んでないで、今なら僕が間に入ってジャニーズに戻してやるから連絡してきなさい!」と呼びかけてもらったほどだった。  実際、当時の豊川は、あいざき進也のバックバンド「アイランズ」のメンバーと共にハイミナール遊びにもハマるなど、アイドル活動の裏では、かなり奔放な私生活を送っていた (自著より)。  その後も豊川が事務所に戻ることはなく、ジャニーズとは喧嘩別れの状態となった。 そのため、ジャニーズ側からは「我々が命名した芸名“誕”の使用は一切禁止」と言われ、しばらくは“豊川ジョー”と名乗って活動せざるを得なくなった。 メリー喜多川は当時、雑誌『週刊平凡』(1978年4月27日号)のインタビュー(顔写真付き)で豊川に対し、「可愛さ余って憎さ百倍」と答えている。
    後援会責任者の女性と一緒に作った新事務所では、1978年に新宿・明治安田生命ホールにてコンサート「ファンと共に歩むジョー」を開催したが、それ以外は上手く軌道に乗らず、思うような活動には至らなかった。  そこで、プロダクション「イヴェンターオフィス」に一旦身を起き、ここを経由して矢沢永吉のスタッフが豊川のために新設した赤坂にあった芸能事務所「エクサエンタープライズ」に所属することとなり、改めて“豊川ジョー”として再出発した。 まず、「BORN-AGAIN 53 豊川ジョーサマーツアー」と題した復帰コンサートツアーを開催。 青山タワーホール(1978年8月13日)を皮切りに、三宅島野外音楽堂(8月15日。八丈島説は誤り)、京都産業会館シルクホール(8月17日)、姫路市民会館(8月18日)の4ヶ所で行われた。 同年10月には、20歳の誕生日パーティーを兼ねたファンの集いも行った。  また、ジャニーズ時代の印税でフランス車・シトロエンも購入。 しかし、ジャニーズの頃には考えられなかったような地方のサイン会や着物ショーのゲストなどもこなすこととなった。 デパートで、“豊川ジョー1日店長”というタスキをかけて全売場に頭を下げて歩き、やっと1曲歌わせて貰えても、契約上の制約から「豊川誕」時代の歌は歌えなかった。

  • 1979年、20歳の時にメリー喜多川と無事に和解し、一旦ジャニーズ事務所に戻る。 そして、同年4月〜5月に行われた、後輩である川ア麻世の1stコンサートツアー「スパーキング麻世 IN LOVE CONCERT」にゲスト出演。 大阪厚生年金会館小ホール、愛知県勤労会館、日比谷野外音楽堂の3つのステージに立ち、ジャニーズを辞めるきっけかになった因縁の曲『白い面影』や、ベースギターを弾きながらキャロルの『涙のテディー・ボーイ』をカバーして唄った。
    本来ならば、このままジャニーズ事務所で再スタートを切る予定だったが、豊川はここに来て、クールスのディレクター・増井淑博からのレコード制作の誘いを優先してしまう。 ジャニーズ側からは、「契約がまだ残ってるから帰ってきなさい」と引き止められたが、豊川はまたもや、せっかく戻れたジャニーズ事務所を去ってしまった。

  • 新たに東芝EMIの「トエミ・ミュージック・オフィス」に所属。 最初は地方のキャバレーやステージパブへの営業回りばかりしていたが、途中で事務所の依頼により、覆面バンド「オール・ジャパン・デビル・バンド」を結成。 ボーカルを担当し、フジテレビ系列のドラマ『ピーマン白書』の主題歌 & エンディング・テーマ『トゥモロー c/w パラダイス・コネクション』を1980年10月に東芝EMIからリリースした。
    覆面バンドと言っても、「表に出ないから正体が不明」という意味での“覆面”だけではなく、実際に顔に覆面を被って活動していた。 曲自体もとても魅力的な楽曲であり、ヒットしたら覆面を脱いで、「実は正体はアイドルだった!」という売り出し方を想定し、原宿ラフォーレ前で覆面を付けたままでのライブパフォーマンスも行ったが、肝心のドラマがあまりの低視聴率のため、全21話の予定が第9話まで、わずか2ヶ月足らずで打ち切られ、曲もヒットには繋がらずに自然消滅してしまった。
    なお、「オール・ジャパン・デビル・バンド」のメンバーには、バンド「ハリマオ」のギタリスト・黒沢賢吾(愛称:黒ちゃん)も居た。  また、ボーカルは当初、豊川ではなく、元・フォーリーブスの北公次がやる予定だった。 しかし興信所の調査で、北が再び覚醒剤を使用していたことが分かり、代わりに豊川にボーカルの話が来たと、豊川が2012年12月9日付の自身のブログで明かしている。

  • 1981年1月、クールスのディレクター・増井淑博が仕掛け人となって長らく制作が進められていたシングル『愛したら最後』が、トリオレコードより“豊川誕”名義でようやくリリース。 「新宿グロリア」という場所や、地方の三越の屋上などで、新曲発表会を兼ねた久々の“ファンの集い”も行われた。

  • 同年、ロックバンド「ジョー&メシア」を結成。(“メシア”と名付けたのはクリスチャンとしてのこだわりから)

  • 1982年2月、テレビドラマ『特捜最前線』にゲスト出演。

  • 21歳(1980年)の春頃からボクシングを習い始め、23歳でバンタム級のプロボクサーに。 更に同じ23歳(1981年〜1982年)の頃には、プロバイクレーサーを経験したり、車の国内A級ライセンスも取得して「マツダ・RX-7」で筑波サーキットへ出場するなどの様々な転身を図るが、いずれも長くは続かなかった。

  • 1982年頃に、歌舞伎町にパブスナックをオープン。これを皮切りに実業家となり、以後次々とお店を開店した。

    1. パブスナック 「グリーンパーク
        1982年頃に開店。 新宿区歌舞伎町1-24-3 浜野産業ビル3F(西武新宿駅のはす向かい)。 ビルのオーナーはバイクレーサー時代に知り合ったレーサー仲間の濱野氏(宮内庁の侍従長の息子)。
    2. 中野坂上(東中野)のスナック (途中からポーカーゲーム店)
        25歳〜26歳時(1983年〜1984年)に経営。 田原俊彦の付き人だった宇野伸一郎に店を任せたが、店の家賃、光熱費を豊川に払わずに滞納したまま3ヶ月ほどで逃亡。
        次は「今井久とパープルシャドウズ」のベーシスト・中西達治に、店を任せたが、中西も店の家賃、光熱費を豊川に一切支払わないまま、数ヶ月間で逃亡した。
        最後は、「株式会社 津村順天堂 (後のツムラ)」の三代目社長・津村昭(本妻以外に妾が4人)の婚外子(男。通称:アキちゃん)に店を任せた。 津村は店を勝手にポーカーゲーム屋に変更。そして、やはり店の家賃、光熱費を豊川に払わないまま、3ヶ月ほどで逃亡。 ついに店は閉店となった。
    3. ショーパブ 「ダンシングマリア
        通称:ダンマリ。 25歳〜26歳時に、一年間のみの経営。 六本木にあったディスコ「21(トゥエンティーワン)」のフロアを改装し、100人収容の大きなショーパブとして開店。 家賃は130万円。 店長は友人の倉田つよし、専務は元「あのねのね」のマネージャー・N氏、店のマネージャーは元ジャニーズJr. 兼 フォーリーブスの付き人だった井上晴雄(愛称:僕ちゃん)。 そしてステージバンドも雇っていた。  この店にはジャニーズ事務所のスタッフたちも来店してくれ、ここで改めてジャニーズとの和解が成立。 当時、青山孝やおりも政夫が出演していたテレビ番組『とびだせ!つり仲間』の忘年会もこの店で行われた。
        この店の従業員には田原俊彦の付き人だった宇野伸一郎や、 元「リトル・リーブス」の森谷泰章が居た(森谷はその後、同じく従業員として働いていた女性と結婚)。
        なお、この店の従業員のほとんどが当時、勤務後に近所のポーカーゲーム店に入り浸っていたため、警察に一斉に逮捕されたことがある。 その際、豊川が身元引受人となり、麻布警察署まで身柄を引き受けに行った。
    4. スナック 「小さなスナック
        25歳〜26歳時に経営。1,300万円の資金で原宿に開店。渋谷区神宮前1-6-1 原宿パレフランスビル内(ビルは2004年に解体)。 営業は元「アニメーション」の田原謙一に任せていた。 明治通り沿い、竹下通り入口の右手角にあった店で、店名の由来は、田原が当時所属していたGSバンド「今井久とパープルシャドウズ」の初代が1968年に発表して大ヒットしたデビューシングル『小さなスナック』から。 この店には、無名時代の「BOØWY」の氷室京介布袋寅泰も客として来店していた。
        (後に田原はこの店を豊川から僅か200万円で買い取って自ら経営。その後、北海道に移り住み、函館駅の近くで「小さなスナック PARTU」→「chi-sna (チースナ)」の店名で移転経営)
    5. 広尾の店舗 (25歳〜26歳時に経営)
    6. ポーカーゲーム店
        25歳時に経営。 埼玉県越谷市越ヶ谷2-2-1 濱野ビル 2F(東武伊勢崎線 越谷駅の真正面)。 従業員を雇って任せていたが半年で閉店。 このビルのオーナーも、豊川が初めて出店した歌舞伎町の店「グリーンパーク」の時と同じく、バイクレーサー時代に知り合ったレーサー仲間の濱野氏(宮内庁の侍従長の息子)。
    7. ショーパブ 「サウンドパブJ・T
        1990年代前半に、池袋の東急ハンズの裏手にて知人と共同経営。 オープン日には元・フィンガー5の玉元正男と玉元晃がステージ出演してくれ、テリー伊藤制作のテレビ番組にも店を紹介させた。 しかし、オープンからわずか3週間ほどで豊川は給料も支払われずに解雇されてしまう。 にも関わらず、その後も「豊川誕の店」と書かれた看板は、半年以上も掲げ続けられていた。
    8. ショーパブ 「パブJ・T
        1996年に開店した25坪の店。 東京都港区六本木4-8-9 玉菊ビル3F(俳優座の脇道を挟んだ向かいのビル)。 この店には、かつてライブで共演した仲の安岡力也も客として訪れた。

      以上、これまでに計8軒ものショーパブやスナック、バーなどを出店している。
      更には、新宿・歌舞伎町のホストクラブにもバンド出演者として雇われたことがあり、豊川はボーカル&ベースギターを担当し、ギタリストの壬月万蔵と2人だけでステージを毎日こなしていた。

  • 1984年12月、三宅島野外音楽堂にて、労働組合電機連合主催のクリスマスコンサートに出演。

  • 1985年7月14日、日比谷野外音楽堂で行われた企画ライブ『ROCK OF RIDER』に、PANTA、あんべ光俊、織田哲郎、鈴木雄大、辻仁成率いるECHOESらと共に、本名の「本田孝 with his band」名義で出演した。[1]

  • 1987年からは、笹川良一会長の会長付き 兼 ボディーガードだった、元検事で空手家の鈴木正文(京都に本部を置き、世界38ヶ国に支部を持つ空手道場「日本正武館」の館長。 アントニオ猪木 vs モンスターマン戦のレフェリーとしても知られる人物)の付き人として、豊川も日本正武館のネクタイを着け、約3年間に渡って可愛がられていた。 鈴木が月に一度、京都から東京に出て来る度に、豊川は鈴木の車の運転手やお茶くみなどをしていた。

  • 1988年から1990年にかけて、本名「本田孝」名義で、6人編成のバンド「MESSIAH(メサイア)」でライブ活動を行う(ここでも再びクリスチャンとしてのこだわりの“メシア”の名を引用)。
       
    そして、1989年には豊川自身がほとんどの楽曲の作詞・作曲を担当したLPレコードをインディーズでリリースしたり、フジテレビ『オールナイトフジ』にゲスト出演したりした。 新宿のライブハウス「サウンドハウス」でライブを行った際には、メンバーの伊藤と仲が良かった野村義男も客として観に来ている。
    ちなみに、MESSIAHでギターを担当していた伊藤栄悟は、豊川と同じくジャニーズ事務所(「ANKH」)の出身。  他のメンバーは、内海いさむ(うちうみ。名前の漢字不明。ベース)、小林つとむ(漢字不明。キーボード)。 ドラムは、CBSソニーからバンド「ティンカーベル」でもデビューした神島えいじ(かみしま。名前の漢字不明。ドラム)。 コーラス&パーカッション&タンバリンは、あいざき進也や植田芳暁のバックバンドでも活動した新村直行(しんむら なおゆき)。 新村は他にも、「森川沙織 & スーパーバンド」のボーカルを担当したり、宴次郎(うたげ じろう)の別名で「桜井りこ & 57’s」にもボーカルで参加している。  この他、7人目のメンバーとしてコンゴ担当の年配の男性もサポート参加していた。

  • 1989年7月より(当時30歳)、ハワイで旅行代理店『Friends Travel, Ltd.』を経営。 会社にハクを付けるため、先に述べた鈴木正文から名前だけ借り、鈴木を会社の会長とした。  当時は3ヶ月に一度、ハワイから日本に一週間ほど帰国するという生活を送っており、帰国している最中はバンド「MESSIAH (メサイア)」としての活動もしていた。 また、俳優への挑戦も視野に入れ、1990年2月より芸名を「本田誕 (ほんだ じょう)」に改名した。(しかし俳優としての活動は結局できずじまいだった)

  • ハワイに渡ってから3年後の1992年、33歳の時に旅行会社を畳んで日本へ帰国。 同年、今度は芸能事務所「(株) フレンズ・JT・プランニング」を麻布十番に設立(その後、中目黒へ移転)。 代表取締役社長を務めながら、「豊川誕」名義でタレントとしても所属した。 他には、元・ずうとるび山田隆夫ジェリー藤尾、タレントの岩崎美佐などを抱えていた。 副社長には宮脇康之(後の宮脇健)を迎え、宮脇をテリー伊藤に売り込んだり、一緒に「豊川誕とケンちゃんバンド」を結成して全国でライブ活動を行っていた(神奈川の国会議員のパーティーでの応援ライブなど)。 また、ジャニーズ時代の仲間であった元「JOHNNYS' ジュニア・スペシャル」の板野俊雄に招かれ、山口県徳山市(現:周南市)にあったディスコ「マハラジャ」でライブを敢行したこともあった。
    更に1992年には、TBSの子供番組『じゃんけんキッズ』にて、番組挿入歌として『自転車レッスン数えうた』、『水の不思議』などを歌唱提供し、「歌:豊川誕」というテロップも流された。
    なお、ハワイ時代からの数年間で、ハワイにコンドミニアム2つ、麻布十番にマンション、江の島にサイドハウスを持ち、車も、ハワイではキャディラック・セヴィル、日本ではベンツ500SELに乗るといった、非常に優雅な生活を送っていた。

  • 1996年4月3日、1998年1月28日、同年8月5日、2000年7月5日、2003年4月26日、そして同年の秋と、公になったものだけでも6度に渡る不祥事を起こしており、度々ニュースや新聞、ネットなどで報道されている。(各不祥事の内容については控える)

  • 2006年後半から2007年前半にかけ、浅草にあるカラオケスナック「ちゃま」で2ヶ月に一度のペースで歌っていた。 また、2007年から2008年2月一杯までは「ダスキンレントオール かながわ川崎イベントセンター」に勤め、トラックに乗って運搬の仕事をしていた。
    その後、知人の森下一正(駐日キルギス共和国の通商代表。元・モリシタ産業の社長)の誘いで、かつて豊川が社長を務めた芸能プロダクション「(株) フレンズ・JT・プランニング」を前身会社とした、新たな芸能プロダクション&イベント会社「(株) J&Kプロモーション」を、2008年5月に渋谷区神宮前に設立した。  森下が代表取締役会長を務め、豊川は“神愛 情 (じんあい じょう)”名義で代表取締役社長を務めることとなった。 豊川自身も駐日キルギス共和国通商代表部としての名刺を持たされたが、実際にはキルギス共和国大使館にこのような部署は存在せず全くの詐欺で騙されていたこと、更に給与も払われずに苦しんだことなどをブログで語った。

  • 2009年7月より12月まで、芸能事務所「イーミュージック」に企画・制作本部長 兼 歌手として所属。 この間に事務所内で「JMS-B(ジャムス・ビー)」なるバンドを結成したが、結局何の活動もしないままで同年中に消滅。

  • 2010年7月より、「ニューセンチュリーレコード」と1年半(2012年1月20日まで)のアーティスト契約を結ぶ。 更に翌8月より「豊川誕☆後援会」を、同年10月からは後援会の関西支部も発足した。

  • 2010年9月よりボイストレーニングを開始し、2011年1月21日に演歌CD『愛は咲き頃』をリリースした。


人物・特徴

  • とてもおしゃべりで、明るく楽しい性格の持ち主。 そして、かなりの下ネタ好きでもある。

  • 趣味・特技 : ギター、ベースギター、バイク、車、映画鑑賞、釣り、ゴルフ、サーフィン、スキー、器械体操(連続バック転や鉄棒の大車輪など)、ダイススタッキング。

      森田健作主演のテレビドラマ『おれは男だ!』を観て剣道に憧れ、中学1年生の時に警察道場で剣道を習い、西播大会に出場(赤穂市の中学の生徒に敗退)。 2年生の時には学校のテニス部に入部。 3年生の時は器械体操部にも入って跳び箱で県大会に出場(成績は振るわず)するなど、子供の頃からとても運動神経には優れていた。 また、短期間だけ通った鉄道学校&夜間高校時代には、卓球・陸上・写真などのクラブに入っていた。 この他にブラスバンド部にも籍を置いていたが、練習には一度も顔を出さず終いだった。

  • 好きなアーティスト : マイケル・ジャクソン、スージー・クアトロ、ゲイリー・ムーア、ジェフ・ベック(かつて『スキャッターブレイン』という曲を自身のバンドでもカバー)、ジョージ・ベンソン、Mr.Big、マライヤ・キャリー、ボーイズUメン、ALL-4-ONEなど。 邦楽ではキャロル。 この他、ジャズ、ソウル、R&B、ボサノバなどを愛聴。

  • 好きな映画 : 『赤ちょうちん』(1974年3月23日公開作品。主演:高岡健二、秋吉久美子。監督:藤田敏八)

  • 生まれて初めて買ったレコードは、中学3年の時に、野口五郎の『オレンジの雨』と、郷ひろみの『小さな体験』の2枚。  購入した理由は、中学2年の時に同じクラスだった初恋の女子が郷ひろみのファンで、少しでもその子の趣味を理解して近付きたかったから。 しかしその女子には既に彼氏が居り、結局告白できずに終わった。

  • 子供の頃からの好きな言葉は、「我想う、ゆえに我あり (cogito ergo sum)
      (フランスの哲学者、ルネ・デカルトが残した言葉。 豊川曰く、「相手のことを嫌いだと思っていると、相手もこちらを嫌いになる、といった意味」とのこと。デカルト本来の意味は、「自分の意識だけは疑えない」)

  • 六本木の合宿所「ドミ麻布」に住んでいた頃は、六本木にあったブティック「パンチショップ」がお気に入りで、よく通ってはバギーなどのジーンズをコレクションしていた。

  • アイドル時代の豊川は、俳優の田宮二郎のことを知らず、テレビ朝日の廊下で田宮とすれ違っても挨拶をしなかったため、田宮からジャニーズ事務所に対してクレームが入ってきたことがあった。

  • ジャニーズ事務所に所属していた17歳の頃、アイドル全盛期にも関らず密かに「ゴールデンハーフ・スペシャル」のメンバーだったリンダと同棲生活を送っていた。  一度、二人で一緒に居る所を『週刊平凡』のカメラマンに撮られてしまったが、白波瀬傑マネージャーが200万円を払ってスキャンダルを揉み消したこともあった。
    このリンダが、豊川にとって最初の女性体験の相手であった。 女性との初体験を終えた後、豊川は社長のジャニー喜多川から、「目に輝きが無い。女を知った顔だ。女を知らないと女を渇望する。その時の目の輝きがファンを引き付ける」と指摘されている。
    元々欧米顔の女性が好きだったこともあり、豊川の方から熱を上げていたが、リンダのあまりに奔放な男性経験の豊富さに着いて行けず、すぐに別れてしまった。 一方の豊川も、このリンダとの交際中にリンダの妹分の女性(日本人と韓国人のハーフでアメリカンスクールの生徒)と浮気をしている(2人目の体験女性)。 この浮気がリンダにバレて猛烈に怒られてしまい、仕方なくその妹分の女性は事務所の仲間の井上純一に紹介して譲り渡したとブログで告白している。 リンダはその後、創価学会に入信。
    この他、豊川は芦川よしみとの交際も発覚している。 ちなみにアイドル時代の豊川が憧れていた女性は吉永小百合、中野良子、ブルック・シールズなどだった。

  • まだジャニーズJr.だった頃の野村義男が学生服姿で合宿所に遊びに来ていた際、豊川は「先輩、先輩」といつも慕われ、豊川もまた野村のことをよく可愛がってあげていた。 そして当時、野村の知らない所で社長のジャニー喜多川に、「彼はすごくいい子だから、必ずデビューさせてあげてね」と何度か推薦している。

  • 子供の頃からシャドーボクシングに勤しんでいたこともあり、21歳(1980年)の春頃からファイティング原田が会長を務める麻布十番のボクシングジム「トーア・ファイティングボクシングジム (後のファイティング原田ボクシングジム)」にてボクシングを本格的に習い始める。 そして23歳の時にバンタム級のプロテストを受けた。その際、対戦相手である協栄ボクシングジムの選手を、1分40秒で見事TKOにしている。 その後、プロとして4回戦まで出場した。 なお、豊川のトレーナーを務めたのは、ファイティング原田の弟の「牛若丸 原田」こと原田勝広であった。 そして、豊川が当時好きだったボクサーは、シュガー・レイ・レナードだった。
    また、同時期にプロバイクレーサーとしても活動。今は無きチーム「アキレーシング」に所属し、富士スピードウェイにてヤマハのバイク「TZ350」を駆っていた。 (アキレーシングはとても個性的なライダーの集まりで、リーダーの輝井嶂 (てるい あきら) は、雑誌『月刊オートバイ』で悩みごと相談のレギュラーコーナーも持っていた)

      豊川のバイク歴に関しては、まず17歳の時に事務所に内緒でバイクの免許を取得。 そして、先に述べた「ゴールデンハーフ・スペシャル」のリンダのいとこが暴走族の幹部だったため、豊川は彼からカワサキの500ccのバイク「マッハV」を買い取り、暴走族の仲間と一緒に遊ぶようになる。 しかし、短風防が付いてハンドルも改造された暴走仕様のこのバイクではあまりにも目立ち、アイドルには相応しくないという事で、3万円で購入した中古の小型バイク「ホンダ・ダックス」の方に乗るようになった。  アイドル時代を終えると、日本で一番大きかった1500ccエンジンのホンダ「ゴールドウィング」を所有したり、「ハーレーダビッドソン」を2台も所有して、ハワイのハーレーチームに所属していたこともあった。 2000年代後半からは「マジェスティー」や「アクシス」90を所有。

  • 美輪明宏の知り合いだという千葉県の某尼寺(奥の院)の副住職、そして女占い師と、これまでに2人の人物に前世を見てもらったことがあるが、奇遇な事に2度とも「前世は僧侶であった」と言われている。

  • 過去に一度結婚したことがある。豊川は相手側の籍へ入ったが、後に離婚。しかし現在でも豊川の本名はその女性側の姓のままにしている。 また、’70年代のアイドル時代にディスコでナンパして出会った女性との間に、1983年6月26日に長男をもうけているが、その女性とは入籍することなく、息子の親権は母親側となっている。
    なお、息子は新宿区歌舞伎町のホストクラブ「club spirit」に2007年8月一杯まで約一年間勤務し、3ヶ月連続でNo.1にもなっている。 2008年からは、「黒川茶来羅 (くろかわ ちゃくら)」の名で、豊川が社長名義だった芸能プロダクション「(株)J&Kプロモーション 」に俳優として所属したが、実際の活動には至らなかった。
    その後、「深谷茶来羅 (ふかや ちゃくら)」に改名。 2013年4月にオープンした歌舞伎町のショーレストラン「nest」にて副店長を務める。 2016年5月16日放送の『月曜から夜ふかし』(日本テレビ)にて「nest」が紹介され、茶来羅もインタビュー出演した。 [1]

  • 宗教に関心が深く、21歳でプロテスタントのクリスチャンとなった他、エマヌエル・スヴェーデンボリ(スウェーデンボルグ)や、チャクラの思想、シュリ・マハヨギ・パイロット・ババの説く「サマディ(仮死状態になって行う瞑想修行)」などにも傾倒している。
    また、雑誌『ムー』で「空中浮遊が出来るようになる」という呼びかけを見つけ、「オウム真理教」の前身である「オウム神仙の会」の会合に出席したことまであるが、 すぐに「麻原彰晃は偽者だ」と悟り、以後は誘いの電話がかかってきても二度と行くことは無かった。

  • アイドル現役当時の顔は、元・NEWSの内博貴に酷似していた(ただしジャニーズ事務所在籍後期の頃に限り、『メンソール・シガレット』や『白い面影』といったレコードのジャケットに、顕著に表れている)。 リーゼントヘアにしていた頃は、俳優の山本裕典や渡部豪太にも。 また、40歳代後半からの顔立ちは、亡き政治家の中川昭一や、晩年の細川たかしに酷似。

  • 未成年の頃から、左手の甲にタバコの根性焼きの痕があった。 また、下腹部に牡丹の花の入れ墨が彫ってあることを、自著やブログにて明かしている。  また、左手の親指と人指し指の間にも、ホクロのような小さな入れ墨がある。これは、かつて芸能界や裏社会の住人たちの間で、「同朋」であることを確認し合うための印だった。

  • 好きな食べ物は、辛い物、焼肉、ユッケ、中華料理、刺身、カレー、ケンタッキーフライドチキンなど。 あとお酒がとにかく大好きで、ビール、ブランデー、ヒレ酒、チューハイ、ワインなど、毎日必ず何かを飲むようにしている。 なお、煙草はクリスチャンになってからは絶っているとのこと。


広範に渡る著名人との交友関係

  • 10代の頃は、東芝EMIからデビューしていた同世代の演歌歌手・倉田つよし(後にフィリップス・レコードに移籍。通称:クラちゃん)や、 後に歌手デビューした青柳ひろみ(通称:アオちゃん)とよく遊んでいた。そして、彼らとは後もずっと交友が続いている。

  • ジャニーズ事務所に所属していた頃、赤坂にあったディスコ「ビブロス」によく行っていた。 そこで出会った遊び仲間が、ヒット曲『学生街の喫茶店』で有名なフォークグループ「GARO」の元メンバー、日高富明(愛称:トミー。1950年 - 1986年)だった。 なお、トミーはその後豊川を通じてジャニーズ事務所に所属しようと考え、自ら作詞作曲した曲を持ってジャニー喜多川に売り込みに行ったが、ジャニーズでアイドルとして売っていくには厳しく、不採用となった。

  • 1980年代、赤坂9-6-24の「日活スタジオセンタービル」(1979年3月築)に住んでいた時(ちなみに豊川が入居した部屋の前住者は女優・歌手の岡崎友紀)、すぐ隣の部屋に京本政樹やロックバンド「ラウドネス」らが所属していた音楽事務所「ラウドネス・ミュージック」があったため、豊川はこの事務所の社長・中下利行(なかした としゆき)と親しい仲になり、豊川のバンド「ジョー&メシア」のメンバーを中下に引き合わせたりもしていた。
    また、長戸大幸(ラウドネスがかつて所属していた音楽事務所「ビーイング」の社長)や、高木信一(後のビーイング傘下企業「VERMILLION RECORDS」や「Ading」の社長)とも知り合う。 これらの縁で、1985年7月14日に日比谷野外音楽堂で行われた企画ライブ『ROCK OF RIDER』に、豊川も本名の「本田孝 with his band」名義で出演。 当時ビーイング所属だった織田哲郎と競演した。

  • アイドル時代によく共演し、「日劇ウエスタン・カーニバル」にも一緒に出演した仲であるあいざき進也とは、後もずっと親しい交友関係を続けている。 また、豊川と同じく孤児出身だったアイドル・荒川務とも、かつてはプライベートで一緒にお芝居を観に行ったりするような友人関係で、一時は一緒にミュージカルをやる計画も立てていた(実現はせず)。
    なお、豊川はアイドル当時、あいざき進也草川祐馬加納竜山本明らと共に、「新新御三家」と称されてもいた。

  • 和田アキ子とも、一時期ラジオの生番組中に電話を貰うような仲だった。(豊川がハワイに住んでいる時に国際電話で和田のラジオ番組に出演)

  • 1977年に、長渕剛がジャニーズアイドル時代の豊川のコンサートの前座をやっている。ただ長渕としては、アイドルの前座をやらされた事にショックを受け、一度歌手を辞めて故郷の九州へ帰っている(その後『巡恋歌』で再デビュー)。

  • ジャニーズを退社後、東京駅八重洲口のライブハウス「DELLA part1」に出演していた際、豊川のバックバンドを務めてくれていたのが、「今井久とパープルシャドウズ」だった。そしてベースの中西達治は、豊川のファンの女性と結婚した。
    また、このライブハウスでは元「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」のドラム・鈴木洋行とも知り合い、一時期仲が良かった。

  • 豊川が1982年頃に開いた最初のお店(歌舞伎町のパブスナック「グリーンパーク」)には、テレビプロデューサー兼ジャーナリストの残間里江子が常連客として来店し、親しくなった。

  • 笹川良一会長の会長付き 兼 ボディーガードだった、 元検事で空手家の鈴木正文(京都に本部を置き、世界38ヶ国に支部を持つ空手道場「日本正武館」の館長。 アントニオ猪木vsモンスターマン戦のレフェリーとしても知られる人物)の付き人でもあった豊川は、鈴木を通じて、笹川良一本人と関わったこともある。
    まず、エイズの撲滅を目指してアメリカの「エイズ研究財団」の先頭に立って慈善活動に従事していた女優のエリザベス・テイラーを、1987年に笹川が日本に招聘し、豊川曰く30億円(日本財団の公式発表では100万ドル、約1億円)もの寄付を行った。
    一方、豊川は以前から歌手のマイケル・ジャクソンを大変尊敬しており、何とかしてマイケルの弟子になることを本気で考えていた。 そして、エリザベスがマイケルの大親友であったことから、「この機会に笹川に頼み込めばマイケルと通じることが出来るかもしれない」と画策し、嘆願書を持って笹川の所へ直談判しに行き、その企画を無事に笹川に了承してもらう。 そして、笹川に二度目に会う際には、豊川は自身の意気込みを示すために丸坊主にまでなったが、弟子になるという企画は頓挫してしまった。
    しかし、後に元・ジャPAニーズのリーダーであり、 芸能事務所「トミーズアーティストカンパニー」の社長でもある“トミー”こと小林謙治から、「笹川会長が“豊川誕はどうしてる? 連絡を取りたい”と言っているよ」と聞かされるなど、笹川には気にかけられていた。

  • 鈴木正文の付き人をしている際に、本田宗一郎にも会っている。

  • ジャニーズ事務所関係者との親交は、事務所退社後もずっと途切れずに続いている。
    まず、JOHNNYS' ジュニア・スペシャルの板野俊雄とは、ジャニーズ事務所時代には確執があったものの、後に和解。 1992年4月には板野をハワイに招待し、一緒にスクーバダイビングの資格を取ったりもした。逆に、山口県に住む板野の元へも訪れている。
    ジャニーズ時代の先輩・青山孝とは兄貴分として親しくしており、豊川が店を開く度に必ず訪れてくれた。特に六本木の「パブJ・T」には毎週のように通ってきていた。
    同じく先輩の江木俊夫には、豊川が不祥事を起こした関係で、豊川の運転免許証の住所を2000年の春に江木の会社の住所にさせてもらった。 しかしその後すぐに、豊川はまた不祥事を起こしたため、江木の会社に多大な迷惑をかけてしまう。 以後、その申し訳無さから江木との交友は途絶えてしまった。
    この他、ジャニーズの関係者では永田英二葵テルヨシとも連絡を取り合う仲にある。 また、当時の豊川のマネージャーで、後に事務所の取締役広報部長となった白波瀬傑(しらはせ すぐる)は、豊川のファンだった大阪の親衛隊の女性と結婚(後に離婚)したことなどもあり、やはり豊川との交流が続いている。

  • 芸能事務所の社長陣との交際も多く、元俳優であり、多岐川裕美の元夫でもある「アクターズプロモーション」&「アクターズエージェンシー」社長の阿知波信介(2007年5月4日、鹿児島県霧島市の犬飼滝に入水自殺)、
    美川憲一、吉沢京子、小川知子、桜木健一、フレンズ、レモンパイ、内田喜郎、横浜銀蝿などを育てた「ユタカプロダクション (旧名:モーニング・プロモーション)」社長の大坂勝利(おおさか かつとし。通名:大坂英之〔読み方は「ひでゆき」と「ひでのぶ」の2種〕。1937年 - 2003年8月。福島県郡山市出身。日本大学世田谷高校定時制卒)、
    ピンク・レディーの育ての親である「ソーマオフィス」社長の相馬一比古 (2005年1月15日に逝去)、
    「ソニー・ミュージックアーティスツ」社長の若松宗雄などと親しかった。
    また、「コロニサーフ音楽出版」の川嶋社長(歌手・杏里の実兄。相模大塚にて「ABCサウナ」も経営)や、
    ジョー山中桑名正博がかつて所属した「デン・ミュージック」社長の田島氏とも友人。 この田島氏との縁で、桑名がハワイ旅行をした際、豊川がエスコートを担当した他、田島はジョー山中を連れて豊川のLIVEを観に来てくれたこともあり、その際に豊川はジョー山中から歌のアドバイスをして貰っている。
    更に、山東ルシア、および山東ルシアのマネージャー 兼 社長とも友人。

  • イベント会社 兼 芸能事務所「(株) フレンズ・JT・プランニング」をやっていた頃は、あいざき進也城みちる松本ちえこ伊藤咲子らをまとめて、様々なイベントに出演させていた。  他にも、振付師の土居甫を招いてトークショーを開催したり、3人組セクシーユニット「平成おんな組」を斡旋したりもしていた。
    また、フォークグループ「とんぼちゃん」の元メンバーで、現在は秋田県でイベント会社社長をしている市川善光とも親しく、山本リンダや、歌手の石井明美とその元夫でドラマー兼歌手の斎藤敦史(別名:ジャッチャカ)らを、秋田県の市川の元へ送り、共にイベントを組んでよく仕事をしていた。 なお、豊川は石井明美夫妻のハワイ旅行のエスコートもしている。
    更に、テレビ東京『浅草橋ヤング洋品店』にレースクイーンやコンパニオンなどを斡旋していたことがきっかけで、番組プロデューサーだったテリー伊藤とも親しくなった。  また、石井光三を業務提携で招き入れて仕事をしたことがあり、その際、事務所のスタッフが石井の分のギャラを横領してしまったため、石井を怒らせてしまったというエピソードもある。  この他にも、アグネス・チャンを招いて『結婚と妊娠について』というビデオ作品を製作したりもしている。
    この会社での営業実績タレントはまだまだ居り、松居直美、市原悦子、渚ゆうこ、つのだ☆ひろ、 加納典明、大澄賢也、佐藤蛾次郎、しじみとさざえ、黒木憲、ゼンジー北京、海老一染之助・染太郎、 大西結花、栗田貫一、生稲晃子、等々、実に多数に上る。

  • 豊川と同期の歌手である「秋葉豊とアローナイツ」のリーダー・秋葉豊(既に故人)からも、弟の様に可愛がられていた。

  • 芸能レポーターの須藤甚一郎とも面識がある。 また、梨元勝や東海林のり子とは、共にトークイベントを行っている。

  • ジャニーズ事務所を退社してしばらくした後、ジャニー喜多川に、「ライブを行いたいけれど、どうすればよいのか?」と相談した結果、原宿のライブハウス「クロコダイル」のオーナー・村上元一を紹介される。
      村上元一
      (愛称:ガンさん。1935年生まれ。アラン・ドロンの初来日時のボディーガード。 渡辺プロ時代の内田裕也のマネージャー。ジャニー喜多川の友人。2006年5月5日に奥多摩「日の出山」の川で居合いをしている最中に心臓発作を起こして71歳で逝去)。
    クロコダイルの店長は元「桑名正博&ファニーカンパニー」のドラム・西哲也、そして店の用心棒が安岡力也だった。 安岡と親しくなった豊川は、1980年代前半に千葉県の某暴走族OB主催によるパーティーに招かれ、「ジョー&メシア」としてのLIVEステージを千葉で行った際にも、安岡と一緒に出演している(この暴走族OB主催による別の日の千葉のパーティーでは、クールスとの共演も果たした)。  なお、安岡との親交はその後も続き、豊川が六本木で営業していた「パブJ・T」にもよく訪れていた。

  • 神田正輝の母・旭輝子にも可愛がられ、2ヶ月に一度行われていた彼女主催の飲み会にも、宮脇康之(後の宮脇健)らと共によく参加していた。飲み会の招待状も、毎回旭輝子が豊川に対して直筆で宛てたハガキであった。 なお、宮脇康之とは共に芸能事務所を営んだり、バンドを結成したりもした仲。

  • 1965年春に伊豆に「下田城」という観光城を築いた「モリシタ産業(1984年に倒産)」の森下一正社長からの依頼で、六本木にあったディスコ「21(トゥエンティーワン)」のフロアを改装し、ショーパブ「ダンシングマリア」を1983年 〜 1984年にオープン(1年で閉店)。 100人収容の大きなこの店(家賃は130万円)には、樋口宗孝(レイジーやラウドネスのドラム)や清水クーコらが来ていた。 また、デビュー前で無名だった頃の「バブルガム・ブラザーズ」も売り込みに来ている。 しかし、1日8万円のギャラを要求されたため、予算が合わずにライブ出演は実現しなかった。 この他、具志堅用高、巨人軍の槙原寛己、元体操選手の岡崎聡子らのパーティーも行われたり、店長も務めていた友人の倉田つよしがダンシングマリアの店長をやっていた縁で、倉田が「かつおぶし」名義で出演していたニッポン放送『阿呆鳥のオールナイトニッポン』の公開録音がお店で行われたりもした。  更に、一時期毎週の様にジョニー大倉岩城滉一も客として来店。 その縁で、当時岩城が所属したレーシングチーム(車)の監督だった右翼団体出身の渕瀬氏とも知り合い、岩城のチームに誘われたりもした(しかし実際に参加はしなかった)。
    また、ジョニー大倉に対してはジョニーの会社「オフィスベイジャンク」の連帯保証人になってあげていたが(保証人はジョニーの父親)、 ジョニーが自ら会社を計画倒産させた上 ジョニー親子は借金を返せないとして、豊川が債権者から追い込みをかけらることとなる。 しかも、かつてジョニーが在籍したバンド「キャロル」のマネージャーだった人物までもが豊川に電話をかけてきて、「俺とジョニーが計画してお前を嵌めた。だからもう逃げられない。 取り敢えず200万円を俺の所に持って来い。そうしたら債権者からの追い込みを止めてやる」とも脅迫されている。(全て豊川のブログでの証言より)
    これが原因で、豊川は妻や子供と別れた他、六本木「ダンシングマリア」や原宿「小さなスナック」など、当時持っていた4軒の店を全て手放す羽目となった。元「アニメーション」の田原謙一に任せていた原宿の店「小さなスナック」は、 開店資金に1,300万円もかかったが、足元を見られて買い叩かれ、わずか200万円で田原に譲った。 これらの精神的ショックから、豊川は当時、本気で出家してお坊さんになることも考えていた。
    なお、この件についてジョニーからは謝罪の電話が一本あったきりで絶縁となった。

  • 池袋で知人と共同経営していたショーパブ「サウンドパブJ・T」には、元・フィンガー5玉元正男玉元晃、双子の歌手「裕子と弥生」らがステージ出演してくれた。 六本木の俳優座の向かいでやっていた店「パブJ・T」にも、元・ずうとるび江藤博利などがお客として遊びに来ている。

  • 作家・政治ジャーナリストの渡辺正次郎が、かつて豊川の身元引受人になったり、豊川の自叙伝『ひとりぼっちの旅立ち』の代筆を担当している。

  • 2008年1月10日から開設したブログ 「豊川誕とみんな友達」の元管理人の従兄弟(父親の弟の息子)が、元モデルの石原だいち(愛称:ロイ、本名:石原大地、1971年3月24日・浅草生まれ、183cm、74kg)。 その縁で、豊川の誕生日イベントやクリスマスライブなどを、石原がスタッフとして手伝ってくれていた。 しかし、豊川と元管理人側との間でいさかいが起き、絶縁となった。 [1][2]

  • タレントの清水ミチコがかつて豊川のファンで、豊川が東京駅八重洲口のライブハウス「DELLA part1」に出演していた際、よくライブを観に訪れていた。

  • この他、歌手の生沢佑一(旧芸名:弾ともや)、タレントの丸山おさむ、バンド「異邦人」のベーシスト・大土井強司、美空ひばりのものまねタレント・エンジェルひばりなどとも親しい関係にある。


主な出演作品

テレビドラマ

  • 刑事くん (1975年10月6日、TBS)
      第4部・第48話「星めぐり 〜 愛のきらめき」にて犯人役。 劇中では『星めぐり』が唄われた。
  • 刑事物語・星空に撃て! (1976年10月4日、フジテレビ)
      第1話「知りすぎた女子高校生」にて麻薬の運び屋役
  • 特捜最前線 (1982年2月17日、テレビ朝日) 後にDVD化
      第248話「殺人クイズ招待状!」にゲスト出演。 殺人予告されるスーパースターの、“日本のジョン・レノン”こと「スルス宮口」役(スルスはフランス語でSource。訳は泉)。 劇中でスルス宮口がギターを弾いて歌った楽曲『サーファー』は、豊川本人が17歳の時に作詞作曲したもの。 また、フランス生まれでフランス人と日本人とのハーフという設定だったため、金髪のカツラを着けて役に挑んだ。 ただし出演シーンは、写真での登場、街角のテレビから流れる歌のシーン、犯人(演じた俳優:後藤哲夫)から襲われるシーン、ライブのシーンの計4シーンで、 出演時間としてはかなり短く、数分程度のものだった。

バラエティ番組

  • チビらサンデー (1976年7月 - 、テレビ朝日)
  • ぎんざNOW!(TBS) 清水健太郎と共に木曜日のレギュラー
  • オールスター家族対抗歌合戦 (フジテレビ)
      この番組に出演した際、豊川の家族は孤児院の理事長と寮母さんだった。 そして泣きながら唄う豊川の姿を見て、審査員の近江俊郎も一緒に泣いてしまったというエピソードを持つ。
  • 前武のヤングアップ (テレビ朝日)
  • おはよう!こどもショー (日本テレビ)
  • 鶴光のテレビ!テレビ (よみうりテレビ) ゲスト出演
  • TVジョッキー (日本テレビ) 「奇人・変人コーナー」にも挑戦した。
  • カックラキン大放送 ! ! (日本テレビ)
      1976年4月9日放送のコント「ゴロンボ刑事+1!?」の回にも桜田淳子とゲスト出演。
  • シャープ・スターアクション (日本テレビ)
  • ’77 オールスター紅白対抗スケート大会 (1977年2月23日、テレビ朝日)
       同年2月9日に品川スケートセンターにて収録。
  • 新・底ぬけ脱線ゲーム (1977年9月28日、日本テレビ)
  • 爆笑!マイスタ ! ! (1981年5月29日、日本テレビ)
      日本テレビ社屋の前で『愛したら最後』を披露。
  • びっくり日本新記録 (日本テレビ)
      「サーフィン芸能人・水上ドラム缶ロデオ」のコーナーで優勝。
  • 元アイドルスター温泉同窓会 (1989年6月28日) 『星めぐり』を披露
  • オールナイトフジ (1989年、フジテレビ) バンド「MESSIAH」でゲスト出演
  • プレステージ 「〜Good Bye 昭和〜 永久保存版 アイドルリクエスト」
       (1989年9月21日、テレビ朝日)
  • −TV MAGAZINE− 晴れ時々たかじん (1989年、ABCテレビ) ゲスト出演
  • 1億人のラブコール 感動!あの人に逢いたい ’91 (1991年12月、TBS)
       「現在の姿」としての映像が5秒程度映ったのみ。
  • じゃんけんキッズ (1992年、TBS、子供番組)
      出演ではなく、番組挿入歌『自転車レッスン数えうた』、『水の不思議』などが「歌:豊川誕」名義で流された。
  • 楽珍!スポーツ共和国 (1994年11月9日、TBS)
  • さんまのナンでもダービー (1995年8月、テレビ朝日) 布川敏和と共演
      「セミ人間抱きつきがまんカップ」で優勝。
  • 徳島夏祭り (2003年8月、四国のケーブルテレビ)
      同年8月2日に開催されたこの夏祭りで、豊川は『星めぐり』、『汚れなき悪戯』、『メンソールシガレット』、『愛したら最後』の4曲を披露。
  • ひるおび! (2009年8月12日、24日、31日、9月2日、2012年6月7日、TBS) インタビュー出演
  • やじうまプラス (2009年8月20日、テレビ朝日) インタビュー出演
  • 情報ライブ ミヤネ屋 (2009年8月26日、日本テレビ) インタビュー出演
  • スーパーJチャンネル (2009年8月28日、テレビ朝日) インタビュー出演
  • サタデースクランブル (2009年8月29日、テレビ朝日) インタビュー出演
  • 爽快情報バラエティー スッキリ!! (2009年9月17日、10月26日、日本テレビ) インタビュー出演
  • スーパー4ニュース (2009年9月17日、フジテレビ) インタビュー出演
  • FNNスーパーニュース (2009年9月18日、フジテレビ) インタビュー出演
  • スーパーモーニング (2009年9月21日、テレビ朝日) インタビュー出演
  • Nスタ (2010年5月12日、TBS) インタビュー出演
  • 懐かしのスターは今!壮絶大追跡スペシャル (2010年10月10日、TBS)
  • ありえへん∞世界 2時間スペシャル (2016年2月16日、テレビ東京)
      「カツオ節はどうしてカチカチなの?」の疑問に対し、一般人として街頭インタビュー出演。 ただし豊川の回答コメントは採用されず、顔が3秒間映ったのみだった。
  • あさチャン! (2016年6月3日、TBS) インタビュー出演
  • 他・・・

音楽番組

  • 歌え!ヤンヤン ! ! (1974年11月 - 1975年3月27日、テレビ東京) レギュラー
      「ヤングベスト10」というコーナーで豊川は、野口五郎の『私鉄沿線』、郷ひろみの『よろしく哀愁』、中条きよしの『理由(わけ)』などを披露していた。
  • ベスト30歌謡曲 (テレビ朝日)
  • 夜のヒットスタジオ (フジテレビ)
      1975年4月21日に『汚れなき悪戯』を披露。 同日には郷ひろみ、和田アキ子、シェリーらも出演。 1976年3月22日には『ほどけた靴ひも』を披露。
  • NTV紅白歌のベストテン (日本テレビ)
      この番組内のコーナーで「うそ発見器」にかけられた時、孤児に関する事柄を追及させてしまう結果となり、豊川は堪え切れずに泣いてしまった。 そして、それを見ていた多くのファンも共に涙したというエピソードがある。
  • シャボン玉プレゼント (テレビ朝日)
      この番組では沢田研二と郷ひろみが豊川のために応援メッセージを寄せたこともあった。
  • レッツゴーヤング (NHK)
  • 象印スターものまね大合戦 (テレビ朝日)
       郷ひろみの『よろしく哀愁』を歌って優勝した。
  • ロッテ 歌のアルバム (TBS)
  • 歌うスタジオ (1977年1月10日&3月14日、テレビ朝日)
  • 歌だギンギン (1977年9月12日、テレビ朝日)
  • 金曜おもしろバラエティ 今夜だけ復活!栄光のアイドルスター達
      (1988年2月19日、フジテレビ) デビュー曲の『汚れなき悪戯』を披露した。
  • 夏休みスペシャル・思い出のアイドルスター in 大磯 (1988年7月22日、フジテレビ)
      「大磯ロングビーチ」からの中継もので、豊川は『星めぐり』を披露。 司会は愛川欽也、水沢アキ。他の出演者は、永田英二、城みちる、天馬ルミ子、桜たまこ、荒川務、伊丹幸雄、あいざき進也、松本ちえこ、シェリー、藍美代子、能瀬慶子。
  • 他・・・

ラジオ

  • ちあきなおみ・豊川誕の突撃!歌謡大行進 (1975年 - 1976年、文化放送) レギュラー
      かつて市ヶ谷にあった文化放送のシャープスタジオより、毎週土曜日の15時から生放送されていた1時間番組。 1976年の新年第一回目の放送ではスタジオLIVEが開催され、豊川は『星めぐり』などを熱唱した。
  • ロッテ 集まれ!ヤンヤン 熱気でムンムン! (ニッポン放送) レギュラー
      『燃えよせんみつ足かけ二日大進撃』内の、おりも政夫司会の公開録音番組。 よく番組内で「ジョニー・B.グッド」を歌っていた。 また、一時期この番組のエンディング・テーマが豊川の『ほどけた靴ひも』だった。
  • 高田文夫のラジオビバリー昼ズ (1994年4月6日、ニッポン放送)
      「桂竹丸の昭和アイドル列伝」のコーナーにゲスト出演。 かつてジャニーズ事務所が入居していた六本木のフォンテーヌ・ビル前からの中継放送。 高田文夫、松本明子、桂竹丸と共演。
  • 三東ルシアのぶっちゃけトーク
      (2010年8月5日、2011年1月20日、レインボータウンFM) 公開生放送。ノーギャラでのゲスト出演。
  • おもいで歌謡うた物語 (2013年12月24日、レインボータウンFM)
       公開生放送。「歌謡市場!本日の大売出し♪」のコーナーにゲスト出演。
  • 松鶴家千とせの輪 (2016年3月30日 - 4月5日、あさくさFM)
      あさくさFMは、100〜200メートル程度しか電波の届かないミニFM局(微弱無線局)。
  • 原めぐみのEN♥JOYトーク (2017年8月3日、レインボータウンFM)
      公開生放送。タロット恋愛占い師・星乃愛実 (まなみ) と共にゲスト出演。


      この他、1970年代に関西のラジオ番組にも月1レギュラーで出演。 また、芸能プロダクション「 フレンズ・JT・プランニング」を経営していた1990年代には、所属タレントの岩崎美佐と共に、仙台のラジオ局の番組に出演したこともある。

CM

  • ロッテ 「アーモンドW」 (1975年)
  • ロッテ 「アーモンドV」
       (1975年。かつてはフィンガー5がこのチョコレートのCMをやっていた)
  • ロッテ 「ガーナチョコレート」
       (スチル広告のみ。郷ひろみや草刈正雄とそれぞれ共演掲載された広告も存在)
  • ラコテイグループ 仲なおりセールスプロモーション株式会社 「仲なおりSHOP」
      (15秒CM。1977年3月1日 - 4月30日。フジテレビ、関西テレビ、テレビ西日本の3局で放映。 なお、「仲なおりSHOP」とはティーン向けの雑貨洋品店。  豊川はCM出演だけでなく、会社から年に10回、1部100円で発売されていた「仲なおり新聞」へも掲載されたり、広告出演やCMソングも担当した)

舞台

  • オリジナルミュージカルプレイ 『友情』
        (「フォーリーブスリサイタル ’75」の中でのミュージカル。1975年1月4日&7日)
  • ライブ・ミュージカル 『少年たち 〜フォーリーブス・不朽の名作〜』
      1975年4月5日 - 5月5日。 ジャニー喜多川からは、出演時間は短いが最後に死ぬシーンのある主役(フォーリーブス版では北公次が演じた役)をやるようにと言われていたが、豊川は「出演時間の長い役(フォーリーブス版では青山孝が演じた役)がやりたい」と、どうしても譲らず、主役は結局JJSの林正明が演じることとなった。
  • STARWAYプロデュース ロックミュージカル 『BOY』
      1988年7月22日 - 24日、水道橋・全国労音会館ホール(後の神田パンセホール)。 主演:松居直美。友情出演者のあいざき進也に誘われ、豊川も同じく友情出演。

ステージ

  • 第53回 日劇ウエスタン・カーニバル 〜 ばらとみかんとバイオリンと
       (1975年3月28日 - 3月31日、日本劇場)
  • ジャニーズジュニアファーストコンサート (1975年4月5日 - 5月5日)
  • ’75 サマーキャラバン ジャニーズ・ジュニア・コンサート (1975年7月25日 - 8月16日)
  • 第54回 日劇ウエスタン・カーニバル 〜 ジャニーズ・ファミリー・フェスティバル
       (1975年8月27日、日本劇場)
  • 第55回 日劇ウエスタン・カーニバル (1976年3月24日 - 28日、日本劇場)
  • フォーリーブス結成10周年記念リサイタルVol.1
    『ライブ・ミュージカル 少年たちパートU 〜 青春の光と影 / フォーリーブス・ダイナマイトステージ』 (1976年3月) 豊川は2部のダイナマイトステージにのみ出演
  • はばたくjoe! 豊川誕ファーストコンサート
      1976年4月2日:大阪フェスティバルホール、5月5日:名古屋市民会館、5月8日:渋谷公会堂。 主催:綜合企画。 このコンサートでは余興コーナーとして、“た”の文字を抜かして唄う『た抜きの歌』も披露された。
  • JOE vs JJS + GANGS 1976 サマー・ビッグ・シティ・コンサート (1976年8月9日 - 23日)
  • 第56回 日劇ウエスタン・カーニバル (1976年8月24日 - 28日、日本劇場)
  • ジャニーズ・ジュニア Jump up スターパレード ’77 (1977年冬)
  • ジャニーズ・ジュニア サマー・フェスティバル (1977年夏)
  • ファンと共に歩むジョー (1978年、新宿・明治安田生命ホール) ジャニーズを離れてから最初のコンサート
  • 復帰コンサートツアー 「BORN-AGAIN 53 豊川ジョーサマーツアー」
      (1978年8月13日:青山タワーホール、15日:三宅島野外音楽堂(八丈島説は誤り)、17日:京都産業会館シルクホール、18日:姫路市民会館)
  • スパーキング麻世 IN LOVE CONCERT
      (ジャニーズに一時復帰し、後輩である川ア麻世の1stコンサートツアーにゲスト出演。 1979年4月 - 5月、大阪厚生年金会館小ホール・愛知県勤労会館・日比谷野外音楽堂)
  • ポートピア・レコード・フェスティバル (1981年6月、神戸ポートアイランド国際広場)
  • ジョー&メシア LIVE (1982年1月8日、八重洲・DELLA part1)
  • 労働組合電機連合主催のクリスマスコンサート (1984年12月、三宅島野外音楽堂)
  • 企画ライブ 「ROCK OF RIDER」 (1985年7月14日、日比谷野外音楽堂)
      PANTA、あんべ光俊、織田哲郎、鈴木雄大、ECHOESらと共に、本名の「本田孝 with his band」名義で出演。
  • MESSIAH ライブツアー (本名:本田孝での活動。1986年 - 1989年)
  • 豊川誕&シャロンのLIVE (1996年、六本木・SPATS)
  • さっぽろ雪まつり (数年に渡って出演)
  • 徳島夏祭り (2003年8月2日)
      『星めぐり』、『汚れなき悪戯』、『メンソールシガレット』、『愛したら最後』の4曲を披露。四国のケーブルテレビで放送もされた。
  • ミニステージ
      (2006年後半から2007年前半にかけて2ヶ月に一度出演。浅草のカラオケスナック「ちゃま」)
  • 黒沢賢吾 セッション with フレンズ (2010年6月1日、大塚・Welcomeback)
  • 若林健二 サマーコンサート (2010年8月8日、八王子市芸術文化会館・いちょうホール)
      自身の曲『星めぐり』と、錦野旦の曲『空に太陽があるかぎり』を披露。 なお、若林は昔、豊川のバックでも踊っていた元・ジャニーズJr.。
  • ホストクラブ 「ニュー愛」 ディナーショー (2010年9月25日、本郷直樹と共に出演)
  • クリスマスライブ
      (2010年12月24日、目黒区鷹番の学芸大学西口商店街のスナック「ビンボー」、会費:5,000円)
      スナック「ビンボー」は、元「アニメーション」の徳永じゅんの店。 当日の模様は2011年に2枚組DVDとして1,000円でインディーズ販売された。  なお、この日の会費を巡って徳永に不当な額を請求された事で揉め、以後、徳永との交友は断絶した。
  • 『愛は咲き頃』キャンペーンライブ
      (2010年12月25日、愛知県豊田市の「スナック CoCo」&「カラオケ 祥子(しょうこ)」)
  • ミニステージ (2011年3月5日、浅草のカラオケスナック「ちゃま」、会費:4,800円)
  • 歌謡ショー
      (2011年3月16日、11月17日、2015年6月24日、ファミリー湯宴ランド小岩・4F「敬天の間」)
  • ハイビスカス歌謡ショー (2011年3月26日、王子・沖縄料理HIBISCUS)
       宴次郎、羽月理恵と共に出演。
  • 「music shed YES!」 開店一周年記念イベント ROCK DAY
       (2011年4月23日、東中野・music shed YES!)
  • 歌謡ショー (2011年5月28日、大宮健康センター・ゆの郷「うたごえレストラン平成」)
  • 宴次郎presents MONTHLY宴会系ライブ 「宴のうたげ」
      (2011年6月11日、2ステージ、東中野・music shed YES!) 森川沙織と共にゲスト出演
  • 歌謡ショー (2011年6月26日、昼夜2回公演、茨城県・石岡健康センター)
  • ミニライブ
      2011年7月17日、横浜市青葉区の居酒屋「味ばたけ れい」。
      会費:5,000円、飲み放題食べ物付。
  • 歌謡ショー (2011年7月31日、2017年8月16日、湯の泉 草加健康センター)
  • 歌謡ショー (2011年8月20日、新小岩・東京天然温泉 古代の湯)
  • 歌謡ショー
      (2011年9月7日、11月23日、2012年4月4日、昼夜2回公演、湯の泉 東名厚木健康センター)
  • 歌謡ショー
      (2011年9月23日、2012年12月21日、昼夜2回公演、湯の泉 相模健康センター)
  • 宴次郎presents MONTHLY宴会系ライブ 「宴のうたげ」
       (2011年10月29日、2ステージ、東中野・music shed YES!) ゲスト出演
  • ミニステージ (2011年12月3日、浅草のカラオケスナック「ちゃま」)
  • 冬樹龍 クリスマスコンサート (2011年12月13日、ホテルモントレ横浜) ゲスト出演
  • クリスマスライブ (2011年12月24日、浅草のカラオケスナック「ちゃま」)
  • YES! Live Adventure 「豊川誕とみんな友達」
       (2012年2月24日、東中野・music shed YES!)
  • 春の祭典
      (2012年3月18日、鶯谷駅そばの歌謡曲カフェ「Lover's ハーレム東京」) 息子と共演
  • 新宿クレイジーナイト (2012年3月25日、歌舞伎町ニュージャパン) ゲスト出演
  • 企業用の営業ディナーショー (2012年12月20日、浦和・ミュージックサロン メロディック)
  • 新春歌謡ステージさいたま (2013年1月14日、大宮ソニックシティ・小ホール)
       多数の演歌歌手との合同コンサート。
  • セ’シュエット(株式会社ジャスティ)の企業パーティー (2016年12月9日、白金台・八芳園)
  • 歌謡ショー (2017年2月4日、北千住・キャバレー「ハリウッド」) 2ステージ
  • 歌謡ショー (2017年2月11日、江戸川区船堀・東京健康ランドまねきの湯) 2ステージ
  • 歌謡ショー (2017年7月26日、館林のイタリアンレストラン「L'AUTRE MAISON 西の洞」)

イベント

  • 豊川誕 新曲発表会 & サークル発足式 (1975年6月6日、日本橋三越屋上)
       当日は雨の降る中、約1,000人のファンが参加した。
  • 誕と握手会 (1976年4月2日、大阪フェスティバルホール)
       当日は約1,700人のファンと握手をした。
  • ファンの集い・18歳の誕生日パーティー (1976年10月3日、宝塚市民会館)
  • HAPPY BIRTHDAY 進也20歳 (1976年10月24日、八芳園・平安の間)
      あいざき進也の20歳を祝うファンクラブイベント。 豊川はゲスト出演。
  • ファンの集い・19歳の誕生日パーティー
       (1977年10月、丸井。司会:木藤たかお、友情出演:丸山おさむ)
  • ファンの集い・20歳の誕生日パーティー (1978年10月)
  • 豊川誕とホワイトクリスマス
  • 『酒井法子 隠された素顔 「碧いうさぎ」はなぜ迷ったのか?』 (梨元勝 著、イースト・プレス) の刊行記念トークショー (2010年10月8日、ブックファースト新宿店)
       梨元勝、東海林のり子、元麻薬Gメンの浦上厚と共に出演。
  • 52歳のバースデーパーティー (2010年10月10日、浅草のカラオケスナック「ちゃま」)
  • 三東ルシアBirthday Dinner Show (2011年10月1日、Liveレストラン青山) ゲスト出演
  • 53歳のバースデーパーティー
      (2011年10月8日、北千住のカラオケスナック「いぼんカルチェ」。
       会費:4,000円。飲み食べカラオケ歌い放題。当日は二次会まで行われた)
  • 2012年 新年会
      (2012年1月22日、北千住のカラオケスナック「いぼんカルチェ」。
       会費:5,000円。3時間の飲み食べカラオケ歌い放題。当日は二次会まで行われた)
  • 第1回 豊川誕とみんな友達
      ファンの集い。 2012年3月25日、横浜市青葉区の居酒屋「味ばたけ れい」。
  • ファンの集い
      2012年6月9日、8月11日。 一次会:赤羽「ラブナイトスポット」(1,500円)、二次会:赤羽「スナック 祐喜英 (ゆきえ)」(2,500円)。
      「スナック 祐喜英」は、元ウクレレ漫談家・牧島邦一(まきしま くにいち。 別芸名:牧秀樹。牧野周一の弟子。牧伸二の弟弟子。元・名和プロダクション所属)の店。林家ペーの行きつけ店。 牧島は同店でカラオケ教室も開いている。
  • 第68回 高須基仁トークショー (2012年8月15日、新宿ロフトプラスワン)
       当日は『愛したら最後』も披露した。
  • 伏見直樹 40周年パーティー (2012年8月19日、西麻布・スーパーデラックス)
  • 54歳のバースデーパーティー
      (2012年10月5日、浅草のカラオケスナック「ちゃま」。会費:4,500円。飲み放題)
  • 大阪の教会での日曜礼拝 (2012年10月28日、大阪恵み教会)
       特別ゲストとして招かれ、讃美歌「きよしこの夜」を歌唱。
  • 57歳のバースデーパーティー
      (2015年10月4日、浅草のカラオケスナック「ちゃま」。会費:4,800円。食べ飲み放題)
  • デビュー41周年記念会 (2016年3月21日、浅草のカラオケスナック「ちゃま」)
  • 58歳のバースデーパーティー
      (2016年10月2日、浅草のカラオケスナック「ちゃま」。食べ飲み放題)
  • クリスマス会 (2016年12月23日、浅草のカラオケスナック「ちゃま」)
       この日は元ジャニーズJr.の宮崎勝も客として参加し、約40年ぶりとなる再会を果たした。
  • 豊川誕デビュー42周年パーティー
      (2017年3月20日、浅草のカラオケスナック「ちゃま」。会費:4,800円。飲み放題)
  • 59歳のバースデーパーティー @ (2017年10月1日、浅草のカラオケスナック「ちゃま」。会費:4,500円。飲み放題)
  • 59歳のバースデーパーティー A (2017年10月8日、京都市南区「スナックじゅえん」。会費:3,500円。30人限定)

WEB

  • WEBテレビ 「I Love みどりんご」
      (2012年1月13日、NetLive、会場:浅草・花やしき座、司会:美土里りんご)
  • WEBテレビ 「天馬天平の富士八郎・芸能界真剣勝負!」
      (2012年1月14日:四谷・48ビジュアルスタジオ、4月28日:板橋区志村・三浦きよし歌謡スタジオ)
      USTREAMにて生放送。 司会:山前五十洋(やまさき いそみ。倉木麻衣の父)。
  • WEBテレビ 「よこくめ勝仁の総理一直線」
       (2012年1月28日、あっ!とおどろく放送局) 飛び入りゲスト出演
  • WEBテレビ 「星乃金太郎のきらきらwkdk(ワクドキ)生放送」
      (2012年4月24日・5月8日・15日、ニコニコ生放送410ch、会場:原宿Skylish)
  • 森ちゃんの歌っていいとも (2016年11月25日、USTREAMの山前五十洋のチャンネル)
      池袋北口「池袋Y-STAGE」での公開生放送。
  • fine.tv MUジックチャンス (2017年3月29日、神田SpaceCUBEより、ツイキャス、SHOWROOM、FRESH!にて三元生配信)
  • 原宿テレビ エンタ王国 (2017年3月30日、シブハラスタジオよりFRESH!にて配信)


ディスコグラフィ

シングル

  1. 汚れなき悪戯 c/w なぐさめがほしい (1975年3月21日)
      オリコン最高28位。 売上数:約9.3万枚。
      1955年製作のスペイン映画『汚れなき悪戯』のリバイバル上映がレコードデビューの時期と重なっていたことに便乗し、話題性を狙って同名のシングルタイトルとなった。
  2. 星めぐり c/w バラの気持 (1975年7月21日)
      最高22位。 売上数:約11.7万枚。
      当初は『バラの気持』がA面の予定だったが、豊川がメリー喜多川に「『星めぐり』をA面にした方がいい」と提案したことで変更された。 そして、豊川のシングルの中で最もヒットした曲となった。
  3. 生きるってすばらしい c/w 希望くん (1975年12月21日)
      最高41位。 売上数:約4.4万枚。
      『生きるってすばらしい』は、メリー喜多川に「次のシングルは、つのだひろの『メリージェーン』みたいな曲が歌いたい」とリクエストして発注してもらった曲。 レコーディングは同年10月29日に目黒の「モウリスタジオ (後のモウリアートワークススタジオ)」で行われた。
  4. ほどけた靴ひも c/w 早春 (1976年3月21日)
      最高28位。 売上数:約3.6万枚。
      A面曲は、雑誌『月刊明星』にて原案を一般公募し、入選した原案に安井かずみが詞を付けたもの。
  5. 元気ですか c/w ぼくの消息 (1976年5月21日)
      最高61位。 売上数:約1.2万枚。
      豊川の歌唱はB面曲のみ。 A面曲の歌唱はJOHNNYS' ジュニア・スペシャル。 なお、両面とも作詞は寺山修司。
  6. 愛しあうには若すぎて c/w やさしい言葉 (1976年7月25日)
       最高73位。 売上数:約1.5万枚。
  7. たった一人の君は c/w 星くずが泣いている (1976年11月1日)
       最高74位。 売上数:約1.0万枚。
  8. 愛のトリコロール c/w イチゴ畑
      (1977年4月。レコーディングは同年2月8日。非売品)
      トリコロールカラーをトレードマーク、“トータル・ファッション・ショップ”をコンセプトとして、1970年代後半に「ラコテイグループ 仲なおりセールスプロモーション株式会社」が出店していた、ティーン向け雑貨洋品店『仲なおりSHOP』のテレビCMソング。 プロモーション用に特別にレコード化されただけで非売品。
  9. メンソール・シガレット c/w 飛ぶのが怖い (1977年3月21日)
      最高96位。 売上数:約0.4万枚。
      当初はB面曲がA面扱いになる予定だったが、豊川本人の強い希望で『メンソール・シガレット』の方がA面曲となった。 この『メンソール・シガレット』のレコーディングの際、テストの1takeでいきなりプロデューサーがOKを出したため、豊川にとっては全然納得のいかない状態でのレコード化となった。
      『メンソール・シガレット』は元々、豊川が作曲者の三木たかしに「こんな曲を作って欲しい」と頼んだ結果、見事要求通り忠実に作られた曲だったため、非常に思い入れが強かった。 それ故、本人は「今でもこの曲を聴く度に辛くなる」と語っている。
  10. 白い面影 c/w 悲しみのトランペット (1977年6月21日)
       最高73位。 売上数:約1.6万枚。
  11. トゥモロー c/w パラダイス・コネクション (1980年10月1日)
      「オール・ジャパン・デビル・バンド」名義。
      A面曲はテレビドラマ『ピーマン白書』のエンディングテーマで、B面曲は主題歌。 なお、バンド名は、作詞者・阿久悠がかつて原作を手がけた劇画から取ったもの。 [1]
  12. 愛したら最後 c/w 野良犬 (1981年1月21日)
      コンセプトは「ロック演歌」で、仕掛人はクールスのディレクター・増井淑博。
      A面曲は、作詞:なかにし礼、作曲:長沢ロー、編曲:馬飼野俊一。
      B面曲は、作詞:阿里あさみ、作曲:長沢ロー、編曲:馬飼野俊一。
      B面曲の誕生エピソードは、豊川がジャニーズ時代に仕事で大阪に行った際、マネージャーの白波瀬傑と屋台でラーメン食べていると、近くを野良犬が徘徊していた。 それを見て自身の孤児時代を思い出した豊川は、思わず涙が止まらなくなった。 この話を白波瀬がジャニー喜多川 & メリー喜多川に伝えた所、更にテレビ東京『歌え!ヤンヤン ! !』の工藤忠義プロデューサーへと伝わり、工藤がペンネーム「阿里あさみ」名義で作詞した作品。
  13. 愛は咲き頃 c/w リバーサイドのBay Hotel c/w 空に太陽がある限り c/w 星めぐり〔2011年バージョン〕 (2011年1月21日)
  14. 天子(送り盆) c/w 泣きかもめ (2012年にリリースされる予定だったが、発売中止)
  15. もう一度、豊川誕 (2013年9月8日)
      7曲入りシングル。 A面曲扱いの『北限の宿』、B面曲扱いの『泣き虫横丁泪雨』、 その他、『愛の讃歌』、『汚れなき悪戯』、『愛したら最後』、『北限の宿 (カラオケ)』、『泣き虫横丁泪雨 (カラオケ)』。 B面曲の作曲は豊川が「神愛情」名義で担当。

アルバム

  1. 汚れなき悪戯/星めぐり (1975年10月1日。ポスター付。 1994年5月21日にCD化)

       

  2. 明日への道 (1976年3月1日。白黒8ページの写真集付)

       

  3. Best Hits 〜 ヒット全曲集
      (1976年11月1日。初ベストアルバム。全12曲。60cm×60cmのポスター付)

       

  4. 夜空の道しるべ (1976年12月5日。ポスター付。全ての曲に「星」の字が入ったアルバム)

       

  5. あの日 あの頃 君は…… (1977年3月21日。ポスター付)

       

  6. ヒット全曲集 〜 若いペーソス 誕のすべて
       (1977年11月1日。ベストアルバム。全14曲。カラーピンナップ2枚付)

       

  7. MESSIAH 〜 心の叫びをきいてくれ ! ! (1989年)
      バンド「MESSIAH」名義でのインディーズLP。 全11曲。 ほとんどの楽曲の作詞・作曲を豊川自身が「本田孝」名義で担当。  2010年に自主制作のCD-Rとインターネットのダウンロードで復刻販売。

       

  8. アーリーシリーズ アーリー70's メイル・アイドル・コレクション (1997年9月21日。CD。全21曲)
      ソニーの ’70年代の男性アイドルの曲を集めたコンピレーション作品で、豊川の曲は、『汚れなき悪戯』、『星めぐり』、『生きるってすばらしい』の3曲を収録。  そしてCDジャケットには豊川の写真が採用された。(デビューシングル『汚れなき悪戯』のジャケットのパターン違いの写真)

  9. ゴールデン☆ベスト 豊川誕 (2008年1月23日。CDベストアルバム。全22曲)

       

客演アルバム

  1. フォーリーブス10周年記念 PART I (1976年7月21日)
      フォーリーブス、JOHNNYS' ジュニア・スペシャルとの共演作。 中野サンプラザでの実況録音盤。

レコード化されていない楽曲

  1. ロッテ アーモンドWのうた (1975年のCMソング、作詞:万年社ロッテグループ、作曲:森田公一)
  2. ロッテ アーモンドVのうた (1975年のCMソング、作詞・作曲:クニ河内)
  3. Your winner for a lifetime (1986年、作詞・作曲:豊川誕)
  4. Give me little chance (1986年、作詞・作曲:豊川誕)
  5. 自転車レッスン数えうた (1992年、TBSの子供番組『じゃんけんキッズ』の挿入歌)
  6. 水の不思議 (1992年、TBSの子供番組『じゃんけんキッズ』の挿入歌)

提供作品

  • 青柳ひろみ 『今夜あたり』
      「本田孝」名義で作曲提供した作品。 元々は豊川がメサイア時代に別のタイトルで歌っていた曲だったが、古くからの親友・青柳ひろみによって、1997年7月18日にレコード会社「センチュリー」(現在は倒産)からCDシングルとしてリリースされた。 豊川はこの曲の作詞も担当しているのだが、作詞者権利だけを青柳に渡してしまったため、作詞者名が「青柳ひろみ」となっている。
      2000年1月7日にはキングレコードから再発売されたが、この時には作曲者権利の方も青柳に譲っており、今度は「作詞・作曲:青柳ひろみ」となっている。  なお、青柳はその後、東北地方に移住。


書籍

ムック写真集

  • 近代映画ハロー春号 『豊川誕集』 (近代映画社、1976年4月)

著書

  • 『ひとりぼっちの旅立ち 〜 元ジャニーズ・アイドル 豊川誕半生記』 (鹿砦社、1997年3月)
      当書は豊川のインタビューを元に書かれたもので、実際に執筆したのは作家・政治ジャーナリストの渡辺正次郎
      渡辺はかつて、俳優の堤大二郎を抱えたプロダクション「(有)山の手企画」の社長で、国会議員の秘書をしていたこともあった。 そして、豊川やオウム真理教・上祐史浩の身元引受人になったことでも話題となった人物。

雑誌・ムック・新聞

  • POPEYE (1981年2月25日号、平凡出版 〔後のマガジンハウス〕)
  • ZOOM IN (1985年1月号、ミリオン出版) 「豊川誕・いまだ夢去りぬ“アイドル歌手”一期生」
  • 週刊セブンティーン (1985年2月19日号、集英社)
      ファンによって六本木で撮影された26歳時の豊川の姿が、投稿写真コーナーに掲載された。
  • Chuッ SPECIAL (2008年6月号、ワニマガジン) 吉田豪との対談
  • 週刊文春 (2009年7月9日号、文藝春秋)
  • 週刊現代 (2009年)
  • 産経新聞 (2009年)
  • 週刊文春 (2010年12月30日&2011年1月6日合併号、文藝春秋)
       「ジャニー喜多川社長のルーツを追う!」 - 取材協力
  • 日刊スポーツ (2011年1月18日版)
  • 夕刊フジ 「あの人NOW!」 (2011年2月9日版)
  • 日刊ゲンダイ 「あの人は今こうしている」 (2011年4月7日版)
  • 日刊ゲンダイ (2011年8月?日版)
  • 日刊ゲンダイ 連載「ホントはこ〜なってる 芸能界SEX事情」
      (全11回。 2011年10月15日、22日、29日、11月5日、12日、19日、26日、12月3日、10日、17日、24日版)
  • 夕刊フジ 連載「アイドルの果て」 (2011年11月24日、25日、28日、29日版)
  • 夕刊フジ (2012年2月23日版)
  • 実話ナックルズ (2012年1月号、ミリオン出版)
  • 文藝春秋 (2012年7月号、文藝春秋)
      「『ジャニーズ帝国』原っぱからの五十年史」(文:二田一比古)に取材協力。
  • 芸能ファイア (2012年9月、ミリオン出版、『漫画実話ナックルズ』特別編集ミリオンムック71)
       「元ジャニーズのトップアイドルが語る 芸能界と裏社会」
  • 女性自身 (2013年1月1日号、光文社) 「亡き北公次との思い出」
  • 夕刊フジ (2016年1月24日版。 SMAPの解散報道について)
  • 週刊アサヒ芸能 (2016年2月4日号、徳間書店。 SMAPの解散報道について電話でのインタビュー)
  • 激撮! 昭和の衝撃のスクープ写真ベスト20! (2016年4月、ミリオン出版、ミリオンムック10) 独占インタビュー [1]
  • ほぼ実話 芸能X-FILE 危ない芸能人 (2016年11月、メディアソフト。コンビニ限定販売のムック) 独占インタビュー

参考書籍

  • 豊川誕 まんが履歴書 「紅茶の味なんて知らなかった ! !」 (あすなひろし 著、月刊明星・1975年11月号)
  • 豊川誕物語 (『月刊プリンセス』1975年12月号、秋田書店。まつしたかずみ・鎌田百合子による読み切り漫画)
  • 優しい去勢のために
      松浦理英子 著、1994年9月、筑摩書房。 1997年12月4日にちくま文庫にて文庫化。
      エッセイ「豊川誕の官能性」を収録。 元々は雑誌『Free』の中の連載エッセイ「Festa A to Z」にて、1983年11月号で発表されたもの。
  • 歌謡界「一発屋」伝説 (1998年12月、彩流社 オフサイド・ブックス)
  • 平成の芸能裁判大全 (2003年10月、鹿砦社)
  • Hotwax 〜 日本の映画とロックと歌謡曲 Vol.4
      (2005年12月、ウルトラヴァイヴ) 「男性“私小説”アイドル豊川誕・ベスト10」


DVD

  • Joe Toyokawa X'mas Live 2010/12/24 Tokyo
      2011年。 2枚組DVD。 全15曲。 1,000円。 インディーズ販売。 元「アニメーション」の徳永じゅんが経営するスナック「ビンボー」にて、2010年12月24日に行われたクリスマスライブを収録。 DVDには徳永じゅんも出演。


外部リンク








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